2011/04/30

被災地の発達障害児

毎日新聞のウェブサイトから転載(下段↓)。

自分が仕事をしてきた分野の話で、今回の地震の後、このような障害のある子供・成人は困っているはずだと思っていたが、おむつのサイズがないなど、私の想像外の話もたくさんあるようだ。

「障害が見た目には分からず、娘が騒ぐと『しつけが悪い』と言われる」

これが、発達障害児の親にとっては一番しんどいことである。発達障害児と接したことがない人に、すぐに分かってもらうのは難しいとは思うが、発達障害はしつけが悪いからおきているのではなく、しつけ責任論が障害児の家族を苦しめることは知っていただきたい。

それにしても「大船渡市は市内の発達障害児を約30人と見ている」って、少ないような気がするんだが、大船渡市って、そんなに小さな市なんだろうか? 「軽度」発達障害児の人数を話しているのか?


東日本大震災:発達障害児の親孤立 避難所避け届かぬ支援

 はた目には分かりにくい発達障害の子どもたちとその親に、東日本大震災の被災地で行政などの支援が十分届いていない。乳児のような夜泣きなどの症状が周囲の理解を得られず、避難所でつらい思いをするケースも多い。岩手県大船渡市の患者を訪ねた小児科医の根津純子さん(37)=東京都世田谷区=は「ただでさえ困難な避難所生活で、さらにストレスがかかり孤立化している」と指摘する。

 軽度の発達障害がある長女(4)の母親(25)は根津さんに打ち明けた。「いっそ家と一緒に流された方がよかったとさえ考えた」。自宅が津波に流され、近くの公民館で避難生活を送る。夜泣きの苦情を恐れ、車中で夜を明かしたこともあった。「障害が見た目には分からず、娘が騒ぐと『しつけが悪い』と言われる」

 長女は大きなサイズの子ども用おむつを使う。頼みの救援物資は成人用と普通サイズの乳児用が主で、大きなサイズは数少ない。「なんで大きい子が」「また来た」。冷ややかな目線を感じ、いたたまれなくなった。

 かつて同市で勤務し相談に乗っていた根津さんがおむつを持参すると母親は感謝しながらこぼした。「せめて同年代の子どもをひと部屋にまとめてくれたら母親同士で支え合うこともできるのに」

 発達障害の長男(7)がいる同市の野田悦子さん(37)は被災を免れた高台の自宅で暮らす。3月末まで断水が続いていた。「津波で浸水したとしても少しでも使えるスペースがあったら自宅で過ごしていた」。長男は興奮すると、大人が見ていてもテレビを消すなどのいたずらをするので避難所暮らしは考えなかった。だが、仮設風呂設置などの生活情報や食料に事欠いた。

 大船渡市は市内の発達障害児を約30人と見ているが、そのうち、津波で家を失うなどして支援が必要な人数は分かっていない。どこに親子がいて、どんな要望があるのか、ニーズの把握が難しいという。市は、大型連休中にも市内の福祉施設を高齢者や障害者が集まる「福祉避難所」に指定する予定だ。だが、排せつ介助の必要な高齢者や重度の障害児が優先され、発達障害の子どもたちが入所できる見通しは立っていない。【徳野仁子】

4月12日は記念日だった

とうに日数が過ぎているが、旧ソ連の国にいて、キルギス人からちょっとだけ話が出ていたのでブログに記録しておく。

4月12日はガガーリンの記念日だったとのこと。その日に、職場のスタッフから「今日は宇宙の記念日だぞ」みたいなことを言われ、どうしてかと尋ねると「ガガーリン…(あとは聞き取れず)」と言っていた。

ガガーリンと言えば、人類初の宇宙飛行をした人物だから、日本人の私だって知っている。4月12日はガガーリンに縁《ゆかり》のある日だから、記念日になっているということだろう。

しかし、「縁」と言ったってどういう縁なのか。誕生日なのか、宇宙飛行に成功した日なのか。こういう時はウィキペディアで検索。色々と批判もあるし、私もすぐにウィキペディアで検索する癖は、自分で物事を調べる能力を劣化させていると思いつつも、すぐに情報が出せて便利なのと、海外にいる現状では仕方ないと割り切って(言い訳して)使ってしまっている。

◆ウィキペディア
「ユーリイ・ガガーリン」の項

記念日になっている4月12日は、1961年に彼が宇宙飛行を成功させた日であった。ウィキの記事には、当時の東西冷戦を背景に、色々なエピソードが書かれていておもしろかった。今の20代の人には「冷戦」なんて言っても、実感がないんだろうね。当時は「ソ連は自国に都合の悪い情報を隠している」と、ソ連政府を悪く言ったものだったが、考えてみれば、どの時代だって為政者は自分の都合の悪い話は出さないものだ。問題はどこまでを「都合が悪い」と捉えるかの差である。

ウィキの「ガガーリン」の項の中にあった、アネクドート(анекдот)も愉快であった(「アネクドート」とはロシア語で「ジョーク小咄《こばなし》」のことである)。

「神はいなかった」

ちなみに、キルギスではこの日は祝日でもなんでもなかった。

あ、宇宙の話だから一応「天文」のタグを付けておこう(「天文」タグは久しぶり…)。

2011/04/28

地名に託された智恵

ちょっと前になるが、東日本大震災に関する次のようなネット記事が私の目を引いた。

東日本大震災:先人は知っていた 「歴史街道」浸水せず
http://www.mainichi.jp/select/wadai/news/20110419k0000e040095000c.html?inb=yt

江戸時代の宿場をつなぐ街道と、今回の大地震によって起きた津波で浸水した所を地図上で重ねると、江戸時代の街道は津波の浸水域を避けて整備されていたらしい、という話である。なるほど、そういうこともあってもおかしくないだろうな、と思う。

この研究をしている大学教授のコメントとして「先人は災害の歴史にめて謙虚だった」とある。江戸時代と現代では人口密度などの条件が違うから、単純な比較はできないだろうが、でも確かに古人と現代人に「謙虚である・ない」という点で差があるのは事実だろう。

私自身のことだが、「ここまで科学が発達した世の中だから、災害が起こっても、科学技術で何とかなるだろう」という科学や技術に対する過信があった。でも、どんな科学技術をもってしても、人間の都合の良いようにはできない事象・事態がこの世には存在する。そんなことをまざまざと突きつけられた、今回の大地震・大津波であった。

そういう「どうにもコントロールできないこと」に対して、古人がとった方策は、「そこに近寄らない」ことだったということか。数十年、数百年前の津波の記憶が、村の中で引き継がれて、どこそこは危ないから住むなよ、と言いながら村・町が作られていったのだろうか。

そういう伝承が途絶えた点も、その理由を推察してみると興味深い。今より情報伝達ツールの種類は少ない時代のほうが、必要な情報が厳選されて伝承されていたのだろうか? また、近現代は人の移動が容易になり、また人口も急激に増えたから、住処《すみか》を求めて外部から人が流入してきたのも、伝承が途絶える要因だったろうか? などなど。

今回の大地震の話ではないが、全国各地、それぞれの地名というのは、その土地の地理的特徴、歴史を表わしているものが多いのだとか。例えば「○○ヶ淵」「○○沼」みたいな地名のところは、その昔は沼地であったところである。今は埋め立てて、人が住んでいるかも知れないが、そういう所は、土地が湿気がちだったりするらしい。

1年前くらいまでNHKで放送されていた『ブラタモリ』という番組は、古地図愛好家でもあるタモリが、古地図を片手に東京の中をぶらつくという趣向で、とても面白かった。その番組の中でも、地名に託された(あるいは隠された)地理的特徴・歴史的事件の話が頻繁に出てきて興味深かった(と同時にタモリの博識にも感心した)。

かようにして、地名には、古人からの生活の智恵が託されていることもある(もちろん、「沼」と名付けたのは、そこが本当に沼だったからで、子孫に智恵を託そうと企図したのではないかも知れないが)。だから、地名というのは軽々に変えるべきではないと私は思っている。今現在の私たちにとっては活用されることがないかも知れないが、数十年後の人たちにとっては役に立つかも知れない。

漢字の地名を、わざわざひらがな表記にしたところがある。外国風の名前にしてカタカナ表記にしたところがある(ように誤って記憶してるだけか? 愛知県の某所…)。こういう愚かしいことが起こったのも、平成の大合併とかで市町村の再編成があったせいなのか。

400年後、500年後の日本人(その頃まで日本人、人類がいるとして)が、「21世紀の人たちは、よく知っていたんだねぇ」と感心するような智恵を我々は残せるのだろうかしらん?

2011/04/27

【お知らせ】 日本・被災地へ、キルギスからのメッセージ展

キルギス協力隊関係者が東京で写真展を開くのでお知らせ。

東日本大震災で被災した日本・被災地の人々へ、今キルギスにいる協力隊が、ホームステイ先、職場などのキルギス人にメッセージを書いてもらい、撮った写真を展示する。会期は2011年5月3日(火)~8日(日)。

詳細は以下のサイトへ。

写真展『ぼくらは繋がっている ~シルクロードの国キルギスの風景と人々~』

私のホームステイ先のホストマザーも孫を抱いてメッセージ写真を撮らせてくれた。東京近郊の方は、足を運んでいただければと思う。

2011/04/26

あんずの花、最盛期

apricot

あんずの花。この木は異様なほど花数が多かった。木によって花の付き方は違う。

これまでは花弁が白のものをみることが多かったが、桃色のものも見かけた。

pink_apricot

こうして見ていると、あんずなのか桜なのか見分けがつかないほど似ている(両方とも「バラ科サクラ属」であることは前に書いた通り)。

2011/04/25

2年の間には色々とある…

同期のブルキナファソ隊員のブログに、国内情勢の問題で一時的に日本に退避するとあった。

タコカレ海を渡る
http://blog.goo.ne.jp/hjunko/e/7b4b46d01a084f08ec8329c340112ff1?fm=rss

こうして、赴任先の国の政情で帰国することもあれば、自分の健康が崩れて帰国することもある。あるいは、日本の家族にやんごとなき事態が発生して、というケースもある。現地での人間関係(現地の人とのこともあれば、協力隊同士のこともあろう)で疲れて、帰国を決意する人もいる。

政治的事情であれ、個人的事情であれ、それは自分ではコントロールしきれないものである。人間関係については、「それは己の忍耐力の問題だから、もっと我慢しろ」と言う向きもあろうが、日本で会社で働くのと同様、どんな人と一緒に活動するのかは自分では選べないことであり、我慢だけではどうにもならないことがある。

そういう訳で、やむなく帰国に至った人たちは、胸を張るのは違うけれど、別に後ろめたさを感じることなくいてほしいと思う(逆に、2年間まっとうしたから威張ることでもないってことだ)。

ホント、2年間というのは、何が起こるか予想しきれないものである。

あ、そう言えば、同じブルキナファソのこちらの隊員は、この時期に任国外に行っていたようだが、一時帰国の準備とかは大丈夫だったのかしらん?

番長のBURKINA滞在記

皆さん、お大事に。

小沢センセイの話を聴こう! (3)

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」に関して、しつこく書き足す。

この番組、2年くらい前まではRealPlayer向けの音声ファイルも配信されていたが、今はWindows Media Audioファイルのみとなっている。同じようなことは、他のラジオ番組の音声配信でも見かけるので、このあたり、ソフトウェア同士の盛衰が現れているように思う。

番組内でかかる音楽は「お囃子《はやし》」と称されている。作曲したのは、山本 直純《なおずみ》という人。既に故人であるが、ちょっと風変わりな作曲家・指揮者として、テレビに出ることの多かった人である。子供向けのクラシック音楽入門みたいな番組では、いつもこの人が出ていた記憶がある。

こうして、小沢昭一氏のお仲間はどんどん鬼籍に入っていく。小沢氏本人は今年82歳あたりだったと思う。「小沢昭一的こころ」の中でも、「長生きはしたいと思って、この歳まで生きてこられたが、長生きすると親しい友人達との死別という寂しいことがあるとは、80まで生きて気付いた」みたいなことを言っていた。

確かにそうであろう。私くらいの若輩者でも、年齢的にはそろそろ同世代の中で病死する者がポツリポツリと出てくる。まして70、80となれば、老衰で亡くなるのは当然である。同世代の知人が去っていくのは寂しいことに違いない。とはいえ、小沢氏にはまだまだ番組を続けてもらうために、長生きしてもらわねば。

小沢氏の長生きの秘訣というか、健康法として過去の放送で話していたのは、「遅寝遅起き」「尿瓶《しびん》健康法」である。

遅寝遅起きは、自分に合った生活リズムで暮らすということらしい。氏は夜中に原稿書きなどをして、明け方に就床し、昼頃に起きるとのこと。なんか、すごく親近感が湧く生活スタイルである。

尿瓶健康法は、夜間に尿意があった時に、トイレに行かずに、寝床の中で尿瓶で用を足すというものである。これは、医学的にも理に適っていることらしい。寝た状態から起きあがることや、(冬場に)冷たい床を歩くことで、急に血圧が高くなって、脳卒中を起こす危険があるそうだ。夜間のトイレと、冬の風呂場(これも温度差が良くない)で脳卒中を起こす老人が多いそうである。

キルギスの家(都市部を除く)は、ほとんどが外にトイレがあるので、ただでさえ用便に行くのが面倒で、冬場のマイナス気温の時はなおさらであった。私も、一時期、真剣に尿瓶を作ろうと思って、ペットボトルを改良しようと試みたが、キャップの問題など解決できず、「マイ尿瓶」は完成に至らなかった。これは、協力隊でキルギスにいるうちに完成させて、一度は使用してみたいと思っている。

2011/04/23

小沢センセイの話を聴こう! (2)

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」という番組は、毎週ひとつのテーマが決まっていて、「○○○について考える」とサブタイトルがついて、一週間小沢昭一氏が話すのである。一つのテーマについて約30分、毎週毎週話すのは想像するよりも大変なことだろうと思う。このブログでもたまに、一つのテーマで続けて書いてみるのは、「小沢昭一的こころ」のスタイルを真似て、少しでも小沢センセイに近づきたいという凡人なりの願いからである。

もちろん、放送作家がついてシナリオを書いている部分もあるが、小沢氏ご本人もかなり関わっているのではなかろうか。特に、芸能史に関するようテーマの週は、小沢氏自身が見聞した芸能の話が中心になる。昭和一桁の生まれながら、明治、大正の芸能にも詳しい。

さて、この番組、間もなく放送回数が1万回を達成するそうである。一年での放送回数は300回ちょっとだから、1万回というのはすごいことである。実に放送は39年間続いている。

そういう訳で、この偉業が達成される時を、少しでも多くの人に知ってもらいたくて、ブログに紹介した次第である。1万回記念とは別に、普段でも聴いて楽しく、ためになる番組なのである。

 

【リンク】 小沢昭一の小沢昭一的こころ
http://www.tbs.co.jp/954/ozawa/

2011/04/22

小沢センセイの話を聴こう! (1)

「小沢センセイ」と言えば、大抵の人は「イチロー」センセイを思い浮かべるのだろうが、私は即座に「ショーイチ」センセイを思うのである。ちなみに、「小室」と聞けば、「テツヤ」全盛期の時代でも、私は「等《ひとし》」を思い浮かべていた。

ショーイチセンセイとは「小沢昭一」氏である。といっても、若い人はほとんど知らないだろうなぁ。小沢昭一氏は俳優で、かつ芸能研究家的なこともしている人である。

協力隊とは何の関係もないのであるが、私にとっては協力隊の思い出と深くつながっている。

8年前、マレーシアへ協力隊員として行っていた時、外国語(マレー語、中国語、その他の現地語)に囲まれる生活であった。ラジオ、テレビから聞こえるのも、(私にとっては)外国語である。そういう中で暮らしていると、無性に日本語が聴きたくなるものである。

その頃に私がしたことの一つは、短波ラジオを買って、NHKの海外向け放送を受信することであった。

もう一つは、ネットで日本語の放送を探すことであった。

今でこそ、日本のラジオ局が無料配信する音声ストリーミングはたくさんあるが、当時はまだまだ少なかった。NHKが配信していた「海外安全情報」(これは今もある)でさえも日本語が聴きたくて聴いていた。そういう中で、たまたま見つけたのが、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」であった。

これは、東京のTBSラジオ製作で、全国約30局にネットされているラジオ番組で、その一部が再編集してネット上で配信されているのであった。実際のラジオ放送では、月曜日から金曜日まで週5回、CMが入って10分弱の放送で、放送された分がネット上にアップされている。

 

【リンク】 小沢昭一の小沢昭一的こころ
http://www.tbs.co.jp/954/ozawa/

2011/04/21

キルギスの病院 (2)

どうやら彼は事前に医者の診察を受けていたらしく、医者が書いた「要レントゲン撮影」のような紙切れを持って、レントゲン撮影の建物(平屋)へ。その紙を見せてレントゲン室へ。「室」といっても、壁とかは普通の家の素材と同じではないかと思うくらい、普通の部屋で、日本の病院にあるレントゲン室と比べると2倍くらいの広さで、だだっ広く感じられた。もちろん、撮影の時は中に入れないから、チラッと見ただけである。ちなみに技師は中年の女性。

撮影後5分くらいで現像をしてもらい、それを持って診察棟のほうへ移動。患者が自分でレントゲン写真を受け取って、診察室に持っていくのって、日本ではやらないのではないか? 少なくとも私は経験したことがない。

レントゲン技師からは、「こことここが折れているみたいだ。手術になるんじゃないか」と言われ、写真を見たら、私にでもわかる感じで小さく骨が2ヶ所突き出ていた。手術はどんな感じでやるのだろうと興味よりも、恐怖感のほうが広がってきた(私は注射とか切開とかをされるのも見るのも苦手なのである)。

そしていざ診察室(らしき)ところに行き、「ドクターですか? 診察をしてもらいたいのですが」という感じで入っていく。診察券とか、診察の順番とかなし。これも日本では考えられない(実際のところ、診察棟には人気がほとんど無く、順番を云々《うんぬん》する必要はなかったが)。

部屋の中には二人の男が座っており、奥側、窓を背にしているほうが偉い感じ。二人共医者であろう。まず、手前(出入り口に近いほう)にいた医者が応対。レントゲン写真を見て、「なんで怪我をしたのか?」など聞き取りをしている。その後、「これはいかがなもんでしょう?」と訊かれて、奥の医者もレントゲンを見る。痛めているほうの手を握れるかなど尋ねていた。

せっかくの機会なので、私は途中で部屋を出て、病院内の他のところもチラチラと見て回っていたが、5分くらいして職場の同僚が診察室から出てきて、そのまま帰ることに。帰りの道すがら聞いたところでは、医者からは、しばらくすれば骨が固まるから手術はしないでよいと言われたらしい。ただし、骨が変形するので、元の通りには手を握ったりできないだろうとも言われたようだ。つまり後遺症が残ると言われた訳だが、日本でなら、そうならないために手術をするのが一般的な治療方針ではないだろうか。

手術となればさらに金がかかるので、本人の方から手術を断ったのかも知れない。あるいは、医者の方から、村民の懐《ふところ》事情を察して、手術を回避したのか…。いずれにしても、金がないために、手術をすればなんということのない怪我も、後遺症が残るのも避けられない現実があるということだ。

結局、診察で彼が得たものは薬の処方箋1枚で、病院からそのまま薬局に行ったのだが、処方された薬の値段が高いので、買うのをあきらめて帰って行ったのであった。

これに懲りて、彼が酒に酔って乱闘をする馬鹿をしないよう改まればよいが…。実は、彼、新年明けにも目を腫らせて出勤してきて、「新年で飲んだ帰り、道でからまれて喧嘩した」と言っていたのである。まあ、私もだらしない酒飲みの一人として思うが、酒癖というのは一生変わらんもので、この人は、そのうちにまた酔って乱闘をするにちがいない。そして、酒によって招いた災厄は、誰からも同情されないのも世の常なのである。

キルギスの病院 (1)

先週のことであったが、職場の男性職員が、片手を庇《かば》うようにして、痛そうな感じだったのでどうしたのか訊いてみた。本人が言うには、前夜、酒場で飲んでいた時に、彼の亡母をバカにされたので喧嘩をしたのだという。

怪我をしたほうの手は、反対の手と比べると二回りくらい腫れ上がっており、素人目にも骨折しているんじゃないかと思われた。病院に行くように進めたが、「行かない」と言い張り、私が一緒なら行くと言う。彼は診察に必要な金が無く、私を同行させて診察料を立て替えさせようとしている節があり、それは御免なので断った。

かくして週が開けても病院に行っていなかったが、さすがの痛みに本人も心配になったのか、あるいは耐えきれなくなったのか、職場の人たちを回って金を借り、診察費用を工面していた。私のところにも来たので、「これしかないよ」と断って金を貸した(実際には貸した以上の金を持ち合わせていたのだが、金の貸し借りでは何度か嫌な思いも味わっているので、出かける時は金を分けておくようにしている)。

病院に行く段になって、また「一緒に行こう」と言ってきたが、今度は持ち合わせがないことも見せてあるし、立て替えさせるつもりもないだろうと思ったのと、私自身がキルギスの、片田舎の病院での診察がどんなものか見てみたい好奇心があったので、一緒に行くことにした。バコンバエバ村は、イシククリ州の中のトン郡にあるが、トン郡の中では一番大きい村であり、郡の病院もここに建てられている。別の用事ではしょっちゅう敷地内には入るのだが、病院本来の診察のほうは受けたことも見たこともなかった。自分が病気・怪我をすることなく、診察を見るにはよい機会であった。

2011/04/19

アンズの花

前回のブログに書いたアンズの花の写真。

apricot01

apricot02

確かに桜に似ている。抑留され強制労働に従事させられた元日本兵たちが、この花に日本の桜を重ねたのも頷《うなず》ける。花が咲く時期も桜に近いし、葉ではなく花から先に咲くのも同じだ。

Wikiで調べてみたら、案の定、これら二つの植物は「バラ科サクラ属」に属する近縁関係であった。道理で似ている訳だ。ちなみに、ウメ、アーモンドも近いらしい(「バラ科」を間違えて「バラ属」と打ったら「薔薇族」と出た…)。

Wikipedia

原産地として書かれている「フェルガナ盆地」はキルギスにもかかっている。バコンバエバ村はフェルガナ盆地ではないが、気候的なつながりで言えば、ここの村でもアンズがなっているのは当然と言える。

実がなれば生のままでも食べられるし、ご存じのとおりジャムにしても美味しい。楽しみである。

アプリコットの花が咲く

私の住む村周辺はアプリコット(杏)の産地で有名らしい。昨年、村に赴任した9月にはすっかり収穫が終わっていたので、アプリコットの実がなっているのを見ることはできなかった。実がなっているところを見ないと、どれがアプリコットの木なのかも分からない。

ここ数日の間に、村内の家の庭にある気に、桜、あるいは梅のような感じの白い花が咲いているのが目につきだした。どうもそれがアプリコットの花らしい。直接、村の人に聞いたのではないのだが、以前、ロシア語の勉強にと思って買ったロシア語の新聞にたまたま載っていた記事に、大戦後、ソ連に抑留された元日本兵の一部がキルギスで強制労働をさせられた話があり、「彼らは、アプリコットの花に桜を思いだし、祖国へ思いを馳せた」と書いてあったのを読んだので、おそらくこの「桜っぽい花」がアプリコットであろうと思う。

まだ写真を撮れていないので、撮ってブログにアップする予定。

2011/04/18

バコンバエバ村周辺、観光スポット巡り

他の町・村にいるキルギス協力隊の仲間が、我が村・バコンバエバに遊びに来た。

村にいる観光系の隊員が準備してくれた観光ツアーで、村の周辺の観光スポットを巡った(その隊員にとっては、外国人向けの観光ツアーを組み立てるための調査も兼ねていたようだから、半分はお仕事であった)。

山の上のほうまで車で行き、「パノラマ」と呼ばれる見晴らしの良いポイントへ行った。あいにく、天候が曇りで見通しがなかったが、晴れていればイシククル湖や対岸の山脈も見えるはずである。また、私が住む村も上から全体が俯瞰できそうである。

途中、山に住んでいる老夫婦羊飼いの家に寄ったら、家の中に上げてくれ、お茶をもてなしてもらった。キルギスでは、知らない人であっても訪ねた来た人にはお茶とパンを出すのが礼儀である。その家で出されたミルクティーの牛乳は、自家で取れた新鮮なものだったようで、味が濃くとても美味しかった。

ただ、ここで食べ物を口にしたのが、私にとってはよくなかった。実は、前夜に隊員同士の飲み会で酒を飲み過ぎた上に睡眠不足でこのツアーに参加していたから、その家に暇を告げて車で移動を再開したら途端に吐き気を催してしまった。お茶とパンに胃が拒否反応を起こしてしまった。

で、その後のツアーはリタイア。一人だけ家に戻って休養。他のメンバーは「マンジュール・アタ(Манжыл Ата)」という、キルギス人の聖地になっている場所に行った。私は以前、別の機会にそこを訪れたことがあったが、ここは子を授かるように願をかける所らしく、若いキルギス人夫婦の姿を見かけた。どこの国でもそういう願をかける場所があるものらしい。

まだいくつか観光コースに入れられそうな所があるようで、それらを巡れたらと思っている。暖かくなってきて、キルギス人は活動的になってきたが、キルギスにいる我々協力隊員も同じように活発に動きだしている感じである。

2011/04/16

食事エチケット色々 (3)

ここキルギスでは、スプーン、フォークの類も共用する。

例えば、ちょっとした祝宴を家で開く時、テーブルにつく人も入れ替わっていくが、その時、後から来た人は、前の人が使ってそのまま卓上にあるスプーンをそのまま使って食事をする。家人が来客に気付いて新しいスプーンを持ってくることもあるが、仮に新しいスプーンが出されなくても、わざわざ「スプーン持ってきて」なんてことは言わない。使いさしであろうと、それを使って済ます。

こういうのは気兼ねのないように思え、私は結構気に入っている。

サラダみたいな大皿から取る料理では、取った分だけ盛りつけが崩れていくのは必然であるが、キルギス人はそれを自分の使っているスプーンやフォークで整え直す。最初それを見た時は、皆がつっつく食べ物をちょこちょこといじるのは、なんかやり過ぎのような感じがしたものだが、いざ目の前に料理の盛りつけが崩れているのを見たら、それを整え直したくなってしまうものだ。

今では料理をちょこちょこと整え直している自分に気付くこともしばしばある。

2011/04/15

食事エチケット色々 (2)

大阪新世界の名物といえば、通天閣と串揚げである。 串揚げの店には、出された揚げ物につけるためのソースがトレーに入って置かれている。揚げたての芋、玉ねぎ、肉のフライにソースを付けて食べるのが美味しい。

串揚げやのテーブルには「二度づけお断り」とか「二度漬け禁止」などと書かれているのが普通である。「二度漬け」とは、串揚げを最初にソースに漬け、途中まで食べた後で、ソース味を足すためにもう一度ソースの中に串を入れることである。ソースは客の共用であるから、これをやると唾液がソースに移るので嫌がる客がいるのであろう。店によっては共用ソースは置かず、各自の皿の上でソース容器から串揚げにかけるようにしてあるのは、二度漬けトラブルを回避するためであろう。

鍋料理の時には、皆で一つの鍋に箸を突っ込んで食べるのであるが、これを嫌だという人は少ない(いや、潔癖症の人には嫌だろうな。取り分け用の箸をわざわざ用意する席もあるかも知れない)。他にも刺身とか、煮物とか、大皿から取り分ける食べ方はいくらでもある(こういうのも潔癖症の御仁には耐え難いらしいが)。ソースの二度漬けも同じようなものだが、それは嫌だというのはなぜだろう…?

鍋料理は、煮立てながら食べるから煮沸消毒されるので、不潔に感じないのだろうか。では刺身や肉じゃがはどうなのだ? 煮沸できないぞ。

私が思うに、我々が嫌だと感じるのは「一度口に入れた物を共用の液体に再投入すること」なのではないか。しゃぶしゃぶをしている時に、食べかけの肉を「あ、俺の肉、冷えちゃったからもう一度あっためるワ」と言って、湯の中に戻す人とは二度と一緒に食事をしたくない。焼き肉の場合なら、もう一度網に戻されても、あんまり抵抗感はない。これは「液体に戻す」のではないからではないか(って、ほとんど主観的な許容範囲の話なのかも知れないが)。ソースの二度漬け禁止もこれで説明できるような気がするのだがどうだろう。

さて、キルギスで二度漬けはどう扱われているかというと、私の見る限りOKのようである。

こちらは食事の時にパンは欠かさず、バターにジャムも2~3種類、卓上に並んでいるのが普通である。バターやジャムをつける時、スプーンで取ってパンに塗ることもあるが、直接、ジャムにパンを漬けて食べることもある。この時、一度食べたパンをまた漬ける光景もよく目にする。皆が使うバター、ジャムであっても、二度漬けは「あり」と解釈できる。

潔癖症の方々は、こういう環境ではとても生活できないだろうと思う。

飛行機雲

hikoukigumo

珍しいかどうかわからないが、飛行機がすれ違うような感じの飛行機雲。

実際には相当距離が離れているはず。昔、航空機同士が200mくらいの距離ですれ違ったのが「ニアミス」だとニュースになっていたのを覚えている。高速道路での車の車間距離なら50mでかなり空いている感じになる(割り込みもされる)が、飛行機となれば200mでも近すぎるということみたいだ。

2011/04/13

食事エチケット色々 (1)

外国へ行って気を遣うことの一つが食事のエチケットである。食事は必ずしなければいけないことだし、同時に最大の楽しみでもあるから、楽しく美味しくいただきたいのだが、これほど文化によってやってよいこと・悪いことが食い違う領域も他にないので大変なのである。

昔、伊丹十三監督の『タンポポ』というグルメをテーマにした映画で、イタリアンレストランで女子大生たちが淑女のエチケットみたいな講習で、スパゲティを食べる時にはスプーンとフォークをこれこれのように使って、音を立てずに食べるのですとお勉強している、その講習をしている隣のテーブルで、がさつな中年おやじがエチケット無視で音を立ててスパゲティをすすって、美味しそうに食べているのを見て、女子大生たちもズルズルと音を立てながら食べる、おまけに講師の先生までも真似をする、というシーンがあった。

日本人は、そばやうどん、ラーメンなど、麺を食べる時は音を立てて食べるのが普通だし、あの音をさせないと美味しくないとまで言う人もいる。子供の頃、「外国では食べる時に音をさせてはいけない」と教えられ、音を立てて食べる自分たち日本人は低俗なのではないかと疑ったものだが、欧米崇拝が今よりも色濃く残っていた時代でもあったのだろう。いまや、なんとかというスパゲティのチェーン店では、最初から割り箸が出されるほどである(以前、試しにフォークとスプーンを頼んだら、もちろん出してくれた)。

欧米文化圏では、スープを食べる時にスプーンが食器にカチンとあたる音もダメだと聞いたが本当だろうか。ここキルギスでは食事中の音に関してはおおらかである。来た当初は、どういうエチケットがあるのか分からず、おそるおそる手探りで静かに食べるようにしていたが、キルギス人たちが食器があたる音は気にしていない様子なので、今では気にせずに食べている(わざと音を立てるわけではない)。

音に関して、欧米ではテーブルでのげっぷは最大級のエチケット違反になるらしい。日本でもげっぷは基本的にはNGではないだろうか。まあ、居酒屋とかみたいな所では、みんな普通に「ゲフッ」とやっているが…。

キルギスではどうか? 答えは「ノー・プロブレム」。全然気にせずにやっている。一応、「げっぷは失礼」というしつけを受けてきた者としては、一緒に食事をしている目の前でげっぷをされると、なんか食事が不味くなるような感じがしてしまうが、向こうには悪意はない。

マレーシアもげっぷOKであった。「月賦」ではない。げっぷである。念のため。若い女性も平気でげっぷするのであるが、日本では考えられない光景であると思ったものだ。

2011/04/12

みかんの皮のむき方にも国民性?

前に書きかけた記事を引っ張り出してきたので、季節はずれの内容になってしまったが、冬の間、キルギスでも売られていたみかんの話。

キルギス人もみかんは好きなようで、冬の間はあちこちの家に置かれているのを見かけた。キルギスで売られているみかんはどうやら中国からの輸入品のようであった(包装紙に漢字がプリントされていた)。

売られている品種の中には、日本では見たことがないような小さな、柚子《ゆず》やかぼす程度の大きさのものがあって、味が濃縮されるせいなのか甘みが強かった。ただ、小さいので皮をむくのは細かくて面倒ではあった。

「皮をむく」と言えば、日本人のみかんの皮のむき方は、みかんの底を基点として、星形、あるいはヒトデ型のようにむいていくのが一般的である。

こちらではそうやってみかんの皮をむいている人は一度も見なかった。どこか皮をむくとっかかりを見つけ、そこから剥いでちぎっていくような感じである。むき終わった時には、皮は四つ五つくらいにバラバラになっている。

私から見ると随分雑なむき方に見えたのだが、確かマレーシアにいた時も同じような感想を持ったことがあったから、おそらく日本人以外では“バラバラむき”のほうが一般的なのだろうし、彼らからは日本人のむき方は手間がかかるし、いちいち神経質ということになるのかも知れない。

パソコンが壊れることを想定しておこう (3)

Windowsに不具合が生じたが、リカバリーディスク用のディスクを持参していなかったケースで、どのように対処したかの紹介をしておく。同様の状況になった方は、解決策の一つとして参考になるかも知れない。

そのケースでは、Ubuntuというソフトを使ってパソコンが使えるようにした。

Ubuntuとは、WindowsのようなOS(オペーレーティング・システム)ソフトである。しかも無料! Linux系OSだとかいう程度までは知っているが、Linuxとは何なのか知らない私でも使える。

Windowsが起動しない状態になっていても、DVD(またはCD)ドライブが作動しているなら、なんとかなる可能性大。Ubuntuのディスク(後述)を入れて電源を入れればよい。すると、インストールするかどうかの選択画面が出るので、インストールに進む。ちなみに、Ubuntuはインストールせずに、CDから起動することも可(時間はかなりかかるが)。お試しで使ってみたい人は、インストールせずに、一度CDで起動してもよいだろう。

Ubuntuの良いところは、ハードディスク内のWindowsの領域を侵さずにインストールできるところだ。しかも、Ubuntuからもハードディスク内を検索することはできるから、Windowsのマイドキュメントなどに保存してあるデータを救い出すことも可能である。もしそのパソコンに見切りを付けるとしても、データは残しておきたいなら、Ubuntuを通じてデータを探して、外付けハードディスクなどにコピーを取ればよい。

インストールの所で書いた「Ubuntuのディスク」であるが、これは自分で用意しなければならない。Ubuntuのホームページで、Ubuntuのイメージデータ(ISO)をダウンロードして、それをCD-Rに書き込めばできる。データサイズはCD-R1枚分、約700MBあるので、ブロードバンド接続ができる場所でないとダウンロードは厳しいが、ネットカフェなどで1~2時間がんばれば何とかなるのではないだろうか(国によって事情が異なるので、できない国もあるだろうが)。

Ubuntuは、Windowsが正常に動いている時にも、Windowsと併存させてパソコン内にインストールすることができる。私のパソコンは今そういう状態になっている。Windows XPとUbuntuの両方が入っている。電源を入れると、どちらのOSを立ち上げるか選択する画面になるので、それで好きなほうを選べばよい。

UbuntuはWindowsと操作方法が異なる所がたくさんあるので、使うにはある程度の慣れが必要だが、基本的な操作ならばそれほど難しいという感じでもない。他人のパソコンにUbuntuをインストールした手前、使い方の質問を受けたら答えられるように、私もちょこちょこと使ってみているところである(Ubuntuに標準で入っている「Robot」というゲームにはまってしまった)。

2011/04/11

パソコンが壊れることを想定しておこう (2)

もし不幸にしてパソコンの調子が悪くなってしまった場合、ハード(パソコンの機械部分)の故障ではなく、ソフト(Windowsとか)の問題であるならば、ソフトを全部最初からインストールし直せば、正常に戻る可能性がある。というか、それをするしか解決できないこともある。

「Windowsを再インストールする」とか「リカバリーをかける」みたいに言うようだが、この時に必要なのが「リカバリーディスク」という物。パソコンを買った時に、箱に一緒に入っている。よく「そういうのは見たことがないよく「そういうのは見たことがない」と言う人がいるが、普通に買ったパソコンであれば間違いなく付属しているはずだ。

このリカバリーディスクを、派遣国に行く時に持っていっていない人が結構多い。「見たことがない」と言っているような人にしてみれば、持っていかないのも当然のことだが…。

これがないと、Windowsの再インストールができない。

だから、万が一に備えて、赴任の際には必ずディスクを持っていくようにされたし(協力隊でなくても、中長期海外赴任するような人も同じ)。ディスクなんて大した荷物にはならない(大抵の人は好きな映画のDVDとかを荷物に入れてるし)。

なんで、こんな話をしているかというと、身近な所で、Windowsの不具合でパソコンが起動しなくなり、再インストールが必要になったが、リカバリーディスクを持ってきていないというトラブルが最近あったからである(で、どうしたかという話は次回に)。

2011/04/10

パソコンが壊れることを想定しておこう (1)

今回の記事は、これから協力隊に行く予定の人を念頭に書いている。

今の時代、協力隊に行く人の間違いなく全員がパソコン(ノート型)を赴任国へ持って行っている。書類を作ったり、デジカメのデータを保存・整理したりするのに必要だし、何よりもネットにつなぐためになくてはならない。この点、15年くらい以上前の協力隊の先輩方からは「俺たちの時代にはネットなんてなかったぞい!」と哄笑《こうしょう》されてしまうだろうが、今はネットを使うのが当たり前なのだから仕方がない(と、これは開き直ってしまっていることになるのか?)。

さて、その大事な大事なパソコン。不幸にして不具合になる可能性は、日本で使っている時とは比べものにならなぬほど高い。パソコンが故障する原因(と私がとっている対策)としては、

  • 移動中の振動・衝撃によるパソコン本体へのダメージ
    派遣国のほとんどでは、道は舗装されていないガタガタ道。そこを通る時にパソコンが傷む。長距離移動の際、私は必ず膝に載せている(盗難防止のためもある)。
  • 気候などの環境の違い
    場所によっては高温・多湿など、パソコンにとっては一番苦手な条件である。マレーシア時代に聞いたので驚いたのは、ノートパソコンの中に蟻が巣を作っていた話。
  • 電力供給の不安定さ
    3・11の大震災後、一部地域では計画停電を実施しているそうであるが、協力隊の赴任先では停電は日常的に起こる。停電が復旧して再び通電する際、一時的に高い電圧が流れることもあるそうだ。これも送電設備が日本よりも性能が低いためだろう。そのため、日本では落雷時のパソコン破損を防止するためのサージプロテクションを使うのがよい。
  • コンピューターウィルスの感染
    途上国では、違法コピーのCD、DVD(映画、音楽)が当たり前のように出回っている。それを職場のパソコンで見るのも当たり前。それでウィルスに感染し、そのパソコンに自分のUSBメモリーなどを差す → 自分のパソコンにも感染ということがよくある。パソコンにウィルス対策ソフトを入れておくことは不可欠。

それ以外にも、パソコンが壊れるきっかけなんていくらでもあるだろう。自分の不注意でお茶をぶっかけてしまった、床に落としてしまった、ホームステイ先の子供が勝手にいじってしまった…。書いているだけでも怖くなるね、まったく。そもそも、日本で使っていたって壊れることはあるんだから、パソコンが故障する可能性は最初から念頭に置いておかなくてはいけない。

2011/04/09

キルギスの飲酒問題 (2)

飲酒常習者は、アルコール依存症になる危険が高い。昼間、村の路上を、泥酔してふらふらの千鳥足で歩いている男たちを毎日のように見ているが、中には何度も見かける者もいる。そういう人はアル中と見てほぼ間違いない(素人判断だが)。

ところで「アルコール依存症」と「アルコール中毒」の違いはなんぞや? と疑問に思って、ネット検索で出てきたサイトを読んでみた。

「アル中」とは「アルコール依存症」のこと。医学的には「アルコール依存症」が正式な呼び方です。(略)「アル中」という言葉には「飲んだくれて道に転がっているどうしようもない人」「ダメ人間」という蔑視的な含みがあるため、「アルコール依存症」という正しい呼称を使いましょう。
http://www.ask.or.jp/alchu.htmlより転載)

(「アル中」は蔑称なのね…。「正しい呼称」って言われてもねぇ、という気がしないでもないが、そのあたりの区別が大切だと思っている人もいるということは覚えておかなければ。)

さて、日本語で書かれたアルコール依存症、アル中のサイトを読むと、「アルコール依存症は病気の一つです。本人の意志の弱さやだらしなさが原因ではありません」と書かれている。本人の嗜好で飲んでいるのではなく、病気なのだから、きちんと治療しましょうという話になっていく。

こういう話がキルギスにはないんじゃないかと思われる。「○○は酒好きだから、いつも昼間っから飲んでる」とか「あいつは大酒飲みだからねぇ…」という括《くく》りで片づけられている。誰もそれが病気だとは思っていないのではないか?

いや、実は日本でだってアルコール依存症という病気が十分に知れ渡っているかは確かではない。だからこそネットなどで「アルコール依存症は病気の一種です」と発信しているのだろうし。ただ、その情報(アルコール依存症は病気であること)に行き着く可能性は高い。

キルギスでは果たしてどうなのだろうか? それを治療が必要なものとして認識している人はどれくらいいるのだろう? ウィキペディア「アルコール依存症」の項では、アルコール依存症は本人が認めたがらない「否認の病」であると書かれていた。病気を認めると酒を飲めなくなってしまうからだという。そうであるなら、なおさらアルコール依存症は病気として認識されづらいだろう。

飲んでいる本人たちは「俺たちは酒が強いんだ」と威張って飲んでいる。これでは病識を持つことは難しい。中には「飲むのは悪いのは分かってるけど、飲んじゃうんだよ」みたいなことを小声で言っている人もいた。こっちのほうが依存症としては深刻なような気もする。

またウィキペディアには、依存症者の周り(おもに家族)には、小遣い銭を与えたり、飲酒によってしでかした不始末を、本人に代わって謝罪したりする人が存在することが多いとも。尻ぬぐいをすることで、「自分は役に立っている」という存在意義を味わい、共依存になってしまうのである。(→ ウィキペディア

「どうしてこんなアル中男と連れ添っているんだろう」とこちらが思うような夫婦を見ることがある。これについては日本とキルギスでは事情は違うような気もするので、「共依存」と括れないケースが多いのではないか? 離婚することの世間体とか、離婚後に行く場所のあてないとか…。

幻聴、被害妄想、家庭内暴力、肝硬変、肝臓癌などなど、アルコール依存症者の末路について書かれたところを読むと、自分も酒を飲むのが怖くなってくる。

安い値段でウォッカが買え、その害に関する啓蒙はなく、病気だと気付く契機になりそうな情報もない(のかどうかは私の語学力だけで判断してはいけないが)。キルギスが国力を高めていく上で、大きな障害になっているように思える飲酒問題は、なかなか根が深い。

2011/04/08

「経済を失速させるな」という論理と原発必要論

今回の福島原発危機は、日本人に「快適・便利な生活だけど、放射能を浴びる危険も潜在している生活」と「放射能の危険を縮小する変わりに、生活も慎ましくしていく」という価値観のどちらを取るかと問いかけているのでは、と書いたが、日本でも当然それに関する議論が起きている。

  1. 「停止中原発のスイッチを入れろ」 こんな声まで出る電力供給巡るさまざまな議論http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110405-00000005-jct-soci
  2. 危ぶまれる定期検査後の再開 東日本、ほとんどの原発稼働せず
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110407-00000615-san-soci

1.の中で、「週刊現代4/16号」の記事として紹介されている、

 「1億2000万人の国民が、今の生活レベルと社会の安定を維持するためには、原子力も含むエネルギーの最良の組み合わせ、ベストミックスしかない」(寺島実郎・日本総合研究所理事長)

「原発は安全ではないが、やむをえず必要なもの」(大槻義彦・早稲田大学名誉教授)

というお二人の意見を読んで、私はなんか虚しい気持ちになった。あくまでも記事の一部が紹介されているだけだし、元の週刊誌自体でもこれらの論者の発言の背景が詳細に説明されていないのかも知れない。その中で、論者の真意とは違う形で読んでしまっているかも知れないことを前置きしておいて、これらの意見には「どうして『今の生活レベルと社会の安定を維持する』必要があるのか?」とか、「どういう意味で『原発はやむを得ない』のか?」という問いが欠落している。なんか、今起きている事態に対して、皮相な議論なんじゃないのか、と思う。

同じネット記事の中で「風力発電を使えば電力供給をまかなえる」という主張も紹介されているが、これも現状の電力需要を前提にしている点では発想の枠組みは同じなのではなかろうか。

どれも「電気がなければ、経済活動が縮小して、日本経済が失速・後退するから電気供給を確保せよ」という枠組みの中での話に聞こえる。問題は「経済が失速させない(ために原発を使い続ける)」ことと「安全度の高い生活」と、我々にとってどちらが大切なのかと考えることであり、それを考えるための材料なり視点なりを集め、提示するほうがよほど大事な作業だと思うのだが…。

一つひとつの発言の正否がどうだのといったことは置いておくとして、それぞれの「識者」が何を発言していることは覚えておく必要はありそうだ。今後の事態の推移に合わせて発言を変える人もいよう。変えるのは悪いことではないが、なぜ変えたのかは明らかにした上で発言してほしいものだ。

「福島」は「フクシマ」になった (2)

日本の歴代首相たちが、国連会議の場などで演説する機会があれば、「唯一の被爆国日本として、核の悲劇を二度と起こさないように尽力する」ということを言ってきたことが思い出される。

その日本で福島原発危機が起きている。

原発は核兵器ではないから、国家の代表者たちが言ってきたこととは矛盾しないのだろうか…。

福島原発の事故は、大地震という天災によってもたらされたものだから、原爆などの核兵器と同一視するのは違うのだろうか…。

私が、確か高校生くらいの頃、広瀬隆の『危険な話』という原発の危険性について書かれた本がブームになり、私より先にそれを読んだ友人から勧められて私も読んだ。そして、原発は危険であり、原発の建設はやめるべきだ、という認識を仲間で分かち合っていた(今、キルギスにいて、マスコミの報道について知ることはできないが、広瀬隆は今回の原発に関連して、テレビ等に出ているようである)。

それから十数年が経ち、テレビ(関東圏)では、原発所在県出身のスポーツ(プロ野球、バレーボール)の元トップ選手が出るCMで、「電力需要の○○パーセントは、原子力発電で担っています。原子力発電は私たちの生活に欠かせません」というメッセージが流されるようになった。

今、自分でもつくづく情けなく思うのだが、そのCMを見た時に、「あ、そんなに原発から電力供給がされているのか。なら、今さら原発を止めるという訳にはいかないな」と、どこかでその数字を容認していた。私のような愚鈍者が一人でもいれば、電力会社としてはCMの効果があったと言えるだろう。

なぜ、あのCMを見せられた時に、「その『○○パーセント』分の需要をなくせば、この国に原発は不要である」と発想できなかったのだろうか? このことが、ここ数日の私にとって、一番の疑問である。

原発建設地、その周辺の住民にとっては、直接的な経済効果の面があるが、それ以外の地域の人(私)が原発の危険性を自分の思考から外してしまったのはなぜなのか。

一つには、「これまで事故は起きてないから、これからも大丈夫だろう」という思い込みがあった。リスクマネージメントではやってはいけないことの第一にあたるが、何事もなく時間が経つと、危険に対する油断が生まれ、危険への対策も次第に緩くなってしまう。そして、終《しま》いには危険そのものが存在していることも忘れてしまう。日本でテレビを見ている時、インターネットをしている時、そのことが原発を存続させる理由になっているという意識はまったくなかった。

また一つには、今の生活スタイルを前提にして、それを維持するためには電気が必要だ、原発も仕方がないと、惰性で原発を受け入れていた。その快適・便利な生活が、原発の持つリスクと引き換えであることを、思考の外に追いやってしまっていた。

今回の大震災、そして福島原発の危機(で終われば良いが…)は、日本人(関東・東北地方住民)の生活観を大きく変えさせることになるし、これだけのことを目の当たりにしたら、嫌でも変わらざるを得ない。そこには「こんなに放射能に怯える危険と引き替えにしてまで、快適・便利な生活を求めたいか」と問いがある。

2011/04/06

物価についてメモ

キルギスでの物の値段について記録を残しておこうと思う。いずれページとして独立させるつもりだが、とりあえずメモ程度に。なお、100ソムは約180円(2011年4月現在)。

塩800g 10ソム
ボールペン 3ソム~
インスタントラーメン(袋) 15ソム
インスタントラーメン(カップ) 40ソム
ビスケット(1kg) 160ソム
板チョコ 50ソム
ピロシキ 10ソム
サムサ(野菜) 20ソム
サムサ(肉) 25ソム
ラグマン 60ソム
クールダック 110ソム
アシュリアンフー 25ソム
ミニバス(バコンバエバ~カラコル) 115ソム
ミニバス(バコンバエバ~ビシュケク 冬季) 350ソム
ミニバス(バコンバエバ~ビシュケク 夏季) 250ソム
タクシー(バコンバエバ~ビシュケク 冬季) 400ソム
タクシー(バコンバエバ~ビシュケク 夏季) 300ソム?
インターネット接続(従量制1MBにつき) 2ソム
新聞(Супер Инфо 週刊) 15ソム
ギターピック 50ソム
ハンドクリーム 150ソム
SDカード(1MB) 200ソム
SDカード(2MB) 300ソム
携帯電話端末 2000ソム

お~、さぶっ

「だいぶ春めいてきた」とブログに書いたのだが、一昨日(日曜)と昨日は小降りながらも雪がちらつく寒さ。「Кайра кыш келди.(カイラ クシュ ゲルディ=冬が再び来た)」と、ちょうど覚えた「再び」というキルギス語の単語を使ってみた。

ホームステイ先のお母さんが「明日は暖かくなる」と言っていた通り、本日は快晴。

暖かくなってきたとは言え、こうして寒さが戻る日もある。なんと言っても東北・北海道と同じ緯度だから、5月くらいまでは寒い日もあることを覚悟しておく必要がありそうだ。

そういえば、日没の時間はずいぶん遅くなった。20時くらいまで陽射しが薄く残っている。札幌近郊に暮らして、冬を越したこともあるが、あそこでは4月の日没はもっと早かったと思うのだが…。これは緯度だけでなく、標高も関係があるのかも知れない。

2011/04/04

キルギスの飲酒問題 (1)

ロシアの酒といえば、言わずと知れたウォッカである。日本語では「火酒」という字があてられるように、度数が高いことで知られている。

キルギス人も、ソビエト連邦の一員だったこともあってか、ウォッカを飲む。キルギス語では「アラック」と言う。マレー語でも酒のことをアラック(arak)と言うので、語源はアラビア語の可能性もある。

キルギスでは、冠婚葬祭、パーティー、客を招いての食事などでは、必ずウォッカが出てくる。

こちらの飲み方は、小さなグラス(お猪口《ちょこ》くらいの大きさ)にホストが酒を注ぎ、その場にいる誰かが指名されて乾杯の口上を述べる。その口上が終わると、グラスを飲み干すという順番である。日本は、最初に乾杯の挨拶をしたら、その後は各自でどんどん飲んでいき、近くの席の人が酒を注ぐのが多いと思うので、スタイルが違う。まあ、キルギスはアルコール度数40度のウォッカが主であるから、ビールが主である日本のように、どんどん飲むという訳にはいかないのだろう。

ウォッカの値段であるが、これが驚くほどに安い。もちろん値段はピンからキリまであるが、安いものでは750mlボトルで100円もしないものが売っている(ただし、当然ながら味は良くない)。普通に飲まれているものでも200~300円程度。簡単に買えてしまう値段なのである。それが、この国の抱える問題の原因の一つである、と私は思う。

キルギスの、特に地方部では仕事が少ない。そのため、日中でも仕事がなくて時間を持て余している男達が道のそこかしこにいる。仕事のない者同士で、いわゆる「ヤンキー座り」をしながら、何か話をしている(別にここの人たちはヤンキーのつもりでそういうしゃがみ方をしている訳ではないけど)。見慣れてきているとは言え、昼間からそうやっている大人の男達を見るのは、やはりどこか違和感がある。

仕事のない一日というのは、実は結構長い時間である。そして、自分の気持ちを向ける対象(作業)がないから退屈である。おそらく、そういう退屈からくるストレスを解消したくて酒を飲んでいる人たちがいる。真っ昼間から、顔を赤らめて、千鳥足で道を歩いていく男達を毎日のように見かける。

ここには「仕事がない → 退屈しのぎに飲酒 → 酔っぱらうので仕事ができない → 仕事がないストレスでまた飲酒」というサイクルがある(現実的には、酔っぱらっていなくても仕事は少ないという問題はある)。こうして飲酒癖が深まって、アルコール依存症になっている人が多いように見受ける。

私は、この国における、飲酒がかなり容認されている文化は、色々な問題につながっていると思う。

2011/04/03

「夏のビッグチャレンジ」について

4月1日のブログに書いた、イシククル湖縦断遠泳チャレンジについて、詳細をご覧になりたい方はこのリンクを開かれたし。

2011/04/02

「福島」は「フクシマ」になった (1)

日本の大震災に関して、ここ最近、テレビのニュースは見られていないが、当初の連日トップで扱われていたものが、2番目、3番目のトピックとして扱われるようになっているようだ。

一方、ここ最近はラジオでニュースを聞くことが多くなっている。どこの国の放送でも、ニュースは正時に始まるから、言語が理解できなくてもニュースをやっていることは分かる。短波ラジオでBBC(英語)やその他の言語(キルギス語、ロシア語、中国語、など)のニュースに耳を傾けていると、「Fukushima ナントカ、カントカ」と言っているのが聞き取れる。中には「Fukushima Daiichi」と言っている放送局もある。

いまや世界中のメディアで、福島原発のニュースは連日扱われ、その破損と放射能拡散の状況は全世界の人に報道されている。「日本にある原発」ではなく、直接「福島原発」として認識されているということだ。それは、かつて我々日本人(いや、日本人だけでなく世界中の人)には縁もゆかりもなかった「チェルノブイリ」という名が、恐怖と不安の感情と共に我々の記憶に刻まれたように、福島原発の名も全世界史に不名誉な形で残ることになる。

「福島」は日本語だけで語られる固有名詞ではなくなっており、「フクシマ」となった感がある。

そうだ、日本には過去にも同じように全人類的な固有名詞になった地名があった。「ヒロシマ」「ナガサキ」である。この二つの地名は、かつて私が隊員生活を送ったマレーシア、今いるキルギスでも皆が知っている。結構な田舎の住民でも、義務教育程度まで修了した人なら必ず習っている。

余談だが、「ヒロシマ」「フクシマ」ともに「~シマ」が付くので、外国人にとっては、「日本には“シマ”で終わる地名が多い」という印象を持つ人がいる気がする。実際、「~島」という地名は、日本では無数にある(都道府県だけで徳島、鹿児島も「島」がつく)。日本は、国自体が列島で成り立っているから、「島」のつく地名が多いのは当然である(と、日本人なら思う)。

ちょっと地理好きの人なら、日本は大きく4つの島で構成されていることも知っている。北から北海道・本州・四国・九州。今回の福島原発危機に関連して、「お前の家族は大丈夫か?」と心を配ってくれる人が多いが、やりとりの中で「フクシマはどの島にある?」と訊かれ、私が「ホンシュー」と答え、「お前の家族はどの島に住んでいる?」と質問が続き、「家族はホンシューに住んでいる」と答えると、相手は一層心配してくれる。

本州と一口に言っても、青森から山口まで広いのであるが、さすがにそこまで知っている人には会ったことがない。「島」の持つ語感から、同じ島(ホンシュー)に住んでいる人はみんな避難しなくてはならない、と思ってしまうのだろう(旧ソ連で起こったチェルノブイリ原発事故について、気になってウィキってみたら、私はロシアで起こった事故だと思っていたのが、実はチェルノブイリはウクライナにあることを知った。私も「ソ連=ロシア」と先入観で思ってしまっていた)。自分の知っている本州と相手のイメージが食い違うので、こちらとしては調子が狂ってしまう(もちろん、心配してくれる気持ちはありがく受けている)。

世界史の中に、ヒロシマ、ナガサキに続いてフクシマが加わったことの事実。ここ数日、そのことはどういうことなのかと問いがたびたび浮かんでいる。

2011/04/01

この夏にビッグチャレンジ!

このブログを通じて、この夏に計画しているビッグチャレンジの宣言をしようと思う。

題してイシククル湖縦断 スイムチャレンジ

ブログ内でも紹介したことがあるが、キルギスの東部にはイシククル湖という巨大な湖がある。知らないで見たら「海」と思ってしまう。参考のために、日本最大の湖、琵琶湖と並べてみる。

lake_Biwako

lake_IssyKul

琵琶湖(上。Aのマークがある所)とイシククル湖(Googleマップから画像コピー)。ほぼ同じ縮尺でこの違い!

私が計画しているのは、このイシククル湖を南北に縦断する遠泳である(さすがに東西は無理でしょ…)。

協力隊員生活の思い出、いや、一生の思い出になるチャレンジになるはずだ。当然、危険も伴うので、体力づくりも含め、サポート体制の確保など、入念な準備が必要。そのあたりは、これから詳細に詰めていくが、とりあえず、ここにチャレンジすることを宣言する!

そういえば今日は4月1日。気付けば日本は新年度になっている。キルギスは9月始まりなので、全然実感がないが…。

(2011年4月1日 記)