2012/08/05

これまでのブログ閲覧統計

帰国してから10日以上経ってしまったが、2012年8月5日時点でのこのブログの閲覧に関する統計を記録として載せておく。

これらのデータは、GoggleがBloggerブログ作成者向きに提供しているもので、必ずしも正確な数値ではない。が、ある程度の傾向はつかめる。

国別閲覧数

日本    14,331
キルギスタン    2,498
アメリカ合衆国    1,425
ロシア    1,314
ウズベキスタン    680
ウクライナ    479
パラグアイ    201
ドイツ    186
ラトビア    139
タイ    94

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(Bloggerの管理者画面からコピー)

日本以外の国では、キルギス、ウズベキスタン、パラグアイなどは協力隊が派遣されている国々で、仲間が時々読んでくれていたのかと予想される。

それ以外のアメリカ、ロシアなどは、どういうわけか、私のブログのURLがまったく知らないところでリンクを貼られていたことがあり、そこから訪れてきた人もいたようである。何度か英語やロシア語で記事を書いており、そういうことも関係しているのかも知れない。

私のブログとは直接関係ないような国からも閲覧してくれている人はいたようで、たまたま何かの検索で私のブログが引っ掛かり、ついでに検索したページ以外の記事も読んでくれたのではないかと想像している。おそらく、それらの国に在住している日本の方だろう。

このデータには出ていないが、一桁の閲覧数の国もあり、インターネットはどこでもでつながるものだと感心した。

ブラウザ別閲覧数

Internet Explorer    13,701 (60%)
Safari    2,690 (11%)
Firefox    2,607 (11%)
Chrome    2,195 (9%)
Opera    618 (2%)
Mobile Safari    496 (2%)
(Palemoon    123 (<1%)
UP.Browser    114 (<1%)
Iron    99 (<1%)
Mobile    61 (<1%)

やはりInternet Explorerユーザーが多いが、それ以外のブラウザもある。Safari、Firefox、Chrome、Operaと続いているが、この順位は一般的なブラウザのシェア順位と同じような気もするが、どうだろうか。

OS別閲覧数

Windows    18,488 (81%)
iPhone    1,556 (6%)
Macintosh    1,038 (4%)
Android    521 (2%)
Linux    496 (2%)
iPad    195 (<1%)
KDDI    119 (<1%)
iPod    108 (<1%)
Other Unix    81 (<1%)
DoCoMo    23 (<1%)

OSの比率もこんなものか、という感じである。私のブログの場合、日本で携帯で読んでくれていた人も結構いるようで、ごく少数ながら日本の携帯電話会社のOSがリストに入っている。

閲覧数の多い記事

    1. 【東日本大地震】 海外でも関心は高い 2011/03/14    264 ページビュー
    2. Восемь бараны в огороде (ニワニワハチトウノヒツジ) 2010/10/18    198 ページビュー
    3. Babylonのインストールはお勧めしない 2010/12/22, コメント(3)    196 ページビュー
    4. ロシア正教寺院  2012/01/01    186 ページビュー
    5. サンスクリット語から来たロシア語  2011/12/01    147 ページビュー
    6. プロ野球交流戦、今年もパが優勝か…  2011/05/30    109 ページビュー
    7. メーデー  2011/05/02    103 ページビュー
    8. この夏にビッグチャレンジ!  2011/04/01    101 ページビュー
    9. 個人的なお知らせ  2012/04/01    90 ページビュー
    10. 新月。暗闇の恐怖。  2011/06/01    88 ページビュー

昨年の3・11の時、私はキルギスの村にいたのだが、テレビでは衝撃的な津波の映像が繰り返し流されていた。そんなことを書いたブログが、私の書いた記事の中では最も閲覧数が多かった。ただし、この記事は震災後2~3週間は訪問者が多かったが、その後、だんだんと読まれなくなった。当時は、誰もが、あの大災害についてなんでもいいから情報が欲しいと思っていたのかも知れない。

3位の「Babylon」関連の記事は、いまだに訪問者が時々ある。つい最近も、知らず知らずのうちにこのソフトを入れてしまった人を見たが、相変わらず質《たち》の悪いソフトである。

キルギスにはまったく関係のない記事も入っているが、まあご愛嬌ということで許してもらいたい。そういう記事に検索で引っ掛かったのをきっかけに、前後のキルギスに関係する記事を読んでくれた人も中には多少いるだろうから、キルギスのことを知ってもらうためには、それも良しと思っている。

2012/07/27

海抜ゼロへ

7月27日午前10時33分、モスクワを経由して成田空港に到着。私は昨年一時帰国をしているので、ちょうど1年ぶりの日本となった。

家族が成田に出迎えに来ているメンバーもいたが、家族にはしばし待ってもらい、空港内のレストランで22-1キルギス隊で帰国後初の食事。

私はビールを注文して皆で乾杯。ヱ●スの黒を飲む。

IMG_3962(日本では今年は黒ビールが流行りだとか…)

帰国の際に乗ったアエロフ●ート社の飛行機では、ビールは有料だったため飲まず。ワインは無料だった。この航空会社は元々そうなのか、経費削減でそうなったのか。

空港に降りた時、予想していた通り、日本の湿気を帯びた暑さに体がだるくなった。ただ、これは暑さだけのせいではなく、これまで海抜1600mで暮らしていたのが、海抜が0mに近いような所に降りたために、気圧の違いでだるさを感じたのもあるのかも知れない。どうなんだろうか。標高の1600m差くらいは大したことではないのだろうか。

空港に着いた時点では「円」の手持ちが無かったので、空港内の両替所でドルを円に交換。1ドル≒75.5円。

2012/07/26

去りゆくものは美しい

本日、キルギスでの活動の最終日。2年間の協力隊生活が終わる。

「走馬灯のように.」は、思い出さないのだけれど、2年という時を過ごしたのだから、もちろんいろんなことを経験した。

村での生活、都市での生活。

活動の場がなかった時期、専門性を活かせた時期。

落ち込んだこと、高揚したこと。

独りでの旅行、仲間たちとの旅行。

節約をしたこと、贅沢をしたこと。

キルギス人が嫌だと思ったこと、キルギス人って良いねと思ったこと。

日本では見たことがない物・こと、日本と共通の物・こと。

暑~い夏、寒~い冬。

キルギスの楽器たち(コムズ、口琴、チョポチョール)、日本から持ってきた楽器たち(ウクレレ、三線、ハーモニカ)。

恋しく思った日本食、恋しく思うであろうキルギス料理。

こんなことは書き出せばいくらでも続く。

それを体験している只中は楽しく思えない経験でも、帰国する今は、それらを辛いという感じでは思い出さないから不思議なものだ。

去りゆくものは美しい思い出に変わっていくのだろうか。

ひょっとしたら、協力隊参加者の中にも、辛い、悔しい気持ちを抱えて帰国する人もいるかも知れないから、あくまでも自分のことだ。

キルギスで、青年海外協力隊員として出会った仲間たち。みなまで言うな。迷惑をかけたことは重々承知しておる。が、みんなが私から受けた迷惑の思い出も、帰国の時にはきっと美しい思い出になっているはずだから、大丈夫(何が?)である!

とにかく、帰国を迎えた今日、「ありがとうキルギス、ありがとうキルギスの人たち」と思いながら、この任地を去っていけるのはラッキーなことには違いない。

このブログをずっと読んでいただいた方にも感謝である。ときどき読んでいただいた方、何回か読んでくれた方、今回たまたまこのページがヒットした方もありがとう。

活動終了とともにブログの更新も終了する人たちも多いが、このブログはまだ更新する予定である。キルギスで見聞したことで、書き残したことはまだあるし、それにブログ名を「千、尋ねる」としておきながら、1000回にはまだまだ遠い道のりである。

とりあえず、これがキルギスで書く最後の記事である。

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2012/07/23

最終報告会

本日、JICA事務所にて、22年度1次隊キルギス協力隊員4名の最終活動報告を行なわれた。

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(プライバシー保護のため、ぼかし処理あり)

報告会の後、個別でJICAキルギスの所長と個別の面談・活動報告も行なわれた。

これでオフィシャルな活動は終了。残すは26日の離任、出発となった。

が、荷物の片付けという一番やっかいな作業がまだ残っている。2年間で一番憂鬱な時間かも知れない。

私は、いまだにマレーシアの任地を発つときのバタバタした状況を夢に見ることがある。

あれは、ひどかった。なにがひどいって、自分で手に負えなくなった荷物を、全部、タクシーに積んで、後輩隊員の家に投げ込んできたのだから、その後輩隊員からは「あの後、大変だったんですよ」と未だに言われる。いや、一生言われるだろう…

今回も、ちょっとそれに似た状況になりつつあるかも。ビシュケクの隊員に荷物を預かってもらうことになりそうだ。

10年経っても、まるで学習していない自分である。

2012/07/21

ラマダン

http://sky.geocities.jp/kaltimjp/ramadan.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%B3

キルギスの24年度1次隊の新ボランティアの歓迎会と、ちょこっと22年度1次隊の送迎会のために、各地方で活動している隊員たちがビシュケクに集まってくれた。

歓迎会の時に誰かと話していて、「ラマダン、始まったね」と言われ、自分はまったく知らなかったのだが、どうやらそうらしいのである。

ネットで調べてみたら、今回のラマダンは西暦2012年の7月20日から8月18日までとのことである。今さら説明するまでもないと思うが、イスラム教の宗教行事である「ラマダン(断食月)」は、イスラム暦(太陰暦)に基づいて行なわれる(イスラム暦の9月)ために、西暦カレンダーだと、毎年異なる日程に行なわれる。

私はキルギスで3度のラマダンを過ごしたが、3度とも街の様子からは断食が行なわれているのかどうかが分からなかった。以前も書いたと思うが、マレーシアでのラマダンは、イスラム教徒(マレー人のほぼ全員)はかなり厳格に断食をしていた(家で軽食を取っている人を見たことがある隊員もいたが…)。マレー系の食堂は日中は営業休止になり、日没後から店を開くという感じであった。「これがイスラムの断食月か」と、間近に見て衝撃に似た感覚を覚えた。

キルギス人も宗教はイスラム教であるが、私がマレーシアで見たラマダンと比べると、「ゆるい」感じである。みんな、朝から晩まで、いつも通りに食事をしている。厳格に断食をしている人も一定数はいるようであるが、私の身近では見ない。

キルギスに来た当初、イスラム教の戒律を守っていないキルギス人たちを見て、「真面目にやらんでいいんか!」とやや批判めいた目で見ていたものだった。思えば、それは私がマレーシアで生活をした時のマレー人たちを規準にしてものを考えていたからだろう。

キルギスで暮らしているうちに、「ここの人たちがこれでいいと思うなら、こういうやり方もありなんだろうな」と思うようになった。そもそもムスリムでない部外者の私が、マレーシアのやり方が正しくて、キルギスのは間違っている、なんてことをいうのもおこがましいのだ。

他のイスラム教地域の人たちからはどう思われているのかは知らない(まあ、きっと眉をひそめる人たちが多いだろうけど)が、こんな人たちもいることで、イスラム教の中の多様性が保たれているという面もあるんじゃないか、とも思う。

【参照】

ウィキペディア 「ラマダーン」

2012年の断食月(おもにインドネシアの断食の様子)

2012/07/16

あと、10日。現実感、まだ無し。

7月26日が離任なので、今日で残り10日となった。でも、まだ帰国することにそれほど実感はわいていない感じでもある。

今週は仕事の最終週で、指導をしている自閉症の子供たちにとっても、最終回の指導となる。最終回なので、家族の人に頼んで、レッスンの後に記念撮影をする。自閉症の子には、カメラのほうを見るというのは難しい子が多いので、記念撮影でも一人よそを向いている。それがまた、その子らしい。あとで見ても「ああ、この子」と思い出すことになるだろう。

子供に付き添ってきている親からは「もっといてほしかった」「また来てくれないのか?」と声をかけてもらう。すべての子供・親にとって役立つ指導・支援ができたとは思っていないが、そうやって声をかけてくれる親にしてみれば、この数ヶ月の指導を通じて、多少なりの変化を感じられたということではないかと思う。

それにしても、日本を出発する時には「やれやれ、今から2年か」と、自ら志願して協力隊に参加したにも関わらず、2年という月日を長く感じたものだが、ぼーっとしたり、遊んだり、仕事したり、飲んだり食べたりして毎日を過ごしているうちに、730日間という時間は蓄積されていくのだ。

協力隊は期限がある上での話だが、人生全体を尺にとってみても同じことである。毎日、楽しんだり、苦しんだり、笑ったり、泣いたり、痒がったり、痛がったり、ほしがったり、嫌がったり、そんな一つひとつの感覚や感情を過ごしているうちに、いつか終わりの日を迎える。

人生の終わりの日については、いつ、どのように終えるのかはわからないが、協力隊の2年を「あっという間だった」と感じるように、「ああ、この○○年はあっという間に過ぎたなぁ」と思うのは、ほぼ間違いない。

2012/07/09

カマールにかまれーる Комар кусает

ビシュケクの夏がこんなに暑いとは、住んでみるまでは知らなかった。ビシュケク住人のみなさん、お疲れさま。

気温が35℃ともなれば、日本と変わらないくらいの猛暑である。実際、直射日光に当たると、日に「焼ける」という言葉が実感される。

ただ、ビシュケクが東京なんかと違うのは、とにかく樹木が多いことである。そのおかげで、影ができて、その中に入ればだいぶ暑さをしのげる。よく言われるように、日本は湿度が高いので、影に入ってもジメジメ感があるが、ビシュケクではそれがないから助かる。

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(とにかく木が多い。緑の威力を思い知る)

気温がこれだけ高いので、村ではついぞ見なかった蚊もビシュケクにはいる。夜の闇にあの羽音が聞こえたときの不快感といったらない。まあ、前に行っていたマレーシアに比べれば、断然、数は少ないのだけれど。

комар
(かわいそうだが、我が安眠のためつぶした。アーミン)

ちなみに、蚊はロシア語で「комар /カマール/」。蚊に刺されることを、ロシア語では「噛む」と同じ単語を使う。日本語でも「蚊に刺される」の他に、「蚊に噛まれる」「蚊に喰われる」という言い方がある。英語もbite(噛む)だったかな? 本当は「刺して吸う」のが正しいのだと思うけど、「蚊に吸われた」という言い方は聞いたことがない。

(今日の記事にはダジャレが2つ入った。)

2012/07/08

温度差十度

テレビの天気予報でキルギスの州ごとの予想最低・最高気温が出ていた。その日の予報では、キルギスで隊員が派遣されているのは3州あるが、私が以前いたイシククル州の最高気温が24℃、もう一つ別のナリン州というところは最高気温22℃であった。

首都ビシュケクはチュイ州にあるが、ここは34℃と出ていた。他の州と比べると約10℃も違う。

これは、標高の違い、山に囲まれていたり平野が多かったりという地形の違いなんかが関係しているのだろうけど、10℃ってかなりの違いである。

昨年の夏はバコンバエバ村にいて、日によっては30℃はいっていたと思われる日もあったが、それでも日が落ちれば肌寒くなるような感じであった。今年はビシュケクで過ごしているので、日本にいるようなジリジリとした陽射しを受けている。

首都以外の隊員(地方隊員と呼ばれる)が所用で首都に来た時に、10℃の気温差を経験するので、体調管理が大変である。実際、それぞれの地方を出発する時は、薄い長袖を羽織ってちょうどよいくらいであっても、チュイ州に入る峠を越えた途端に気温が急上昇するから、半袖にならなければならない。熱中症になりかけた、と言っていた人もいたくらいである。

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(この峠が気候の境目)

そういえば、ビシュケクの人たちは、夏休みになるとイシククル湖(イシククル州にある)へ行くのが当然みたいのようであるが、35℃の猛暑で暮らすビシュケク住人にしてみれば、イシククルに出かけるのは文字通り「避暑」であるのだね、今気づいたけど…。

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(イシククル湖のビーチ。避暑客でにぎわう)

2012/07/07

最後の一粒

日本から書籍類を送ってもらった時に、家族が日本食もいくつか入れてくれていたのだが、その中に梅干があった。

日本にいる時には毎日梅干を食べていたわけではないが、海外生活の身にとって梅干は「ザ・日本食」の代表格みたいなものであり、あるとホッとする存在である(かなり思い込みで書いているが…)。

昔、協力隊OBの先輩が、「梅干って、別にいつも食べたいわけじゃないんだけど、『梅干がまだ残っている』ということがいざという時に心の支えになるんだよねぇ」みたいなことを言っていて、まあ、それは梅干以外にも人それぞれそういう物があるんだろうけど、その話にはどこかうなずけるものがあった。

日本から送られた梅干も、自炊の時なんかに白米と一緒に食べたりしていたが、上の話が心のどこかにあったこともあり、最後の一粒は「いざという時」のために食べずに残していた。まだ、それは残っている。

では「いざという時」はいつなのか、どんなことがあるのか、と訊かれれば、おそらくそんな時は来ないのである。いや、「いざという時」が来たとしても、梅干一粒で対処できる・できないの話にはならないことはほぼ間違いない。

でも、「いざという時」のために梅干が一粒残っている、ということが大事である。たとえば体調を崩した時、「梅干を舐めればよくなるかも」という状況であっても、最後の一粒だから「いや、待て。もっと大変な体調不良が来るかもしれないから、今はまだ梅干の出番ではない」と思いとどまる耐力(?)が生まれるのである。

ということは、「いざという時」に備えるということは、「いざという時」の到来を延期させていることにもなるのかもしれない。「いざという時」のために用意した道具・手段を封印すれば、それ以外の道具・手段を考案しなければならなくなる。そして、意外にそれはそれで何とかなるのである。

このように、最後の一粒となった梅干の効用を書いてみたのだが、読まれた方には意味が伝わっただろうか。問題なのは、こんな風にして残っている日本食が他にもいくつかあることなのである。日本のインスタントラーメンの最後の一袋、塩昆布の最後の一袋、七味唐辛子の最後の一缶、生しょうがの一チューブ…。

これらの中には、先輩隊員から引き継いだ物もある。そして、私も残っている物は後輩隊員に引き継ぐのである。それらが活用されるような「いざという時」が彼らに来ないことを祈りつつ。

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(残された最後の一粒の梅干。これを食す時は来るのか?
というよりも、これ、まだ食べられるのか?)

2012/07/06

…しておけばよかった

任期残りわずかにして今さらなのだが、というか、残りわずかになったからゆえに、この2年間で「ああ、やっておけばよかった」ということが頭に浮かんでくる。

落語のファイルを持って来ればよかった…

いくつかの落語を音声ファイルに変換して持ってきていたが、もっとたくさん持って来ればよかった。桂枝雀の全集とか、金を惜しまずに買っておけばよかったなぁ、つくづく思う。落語とか漫才のCD・DVDは、外国では入手できない物だから、日本でゲットしおくべきであった。それでも、今は動画サイトで過去の寄席番組なんかがアップロードされている(あれって違法じゃないのかな?)から、たまにそういうのを見たりもしていた。

もっと読書すればよかった…

2年間、時間がたくさんあると思って、日本で読めていなかった本、読むのに時間がかかりそうな本をキルギスに持って来たり、あるいは郵便で送ってもらったりしてあった。でも、結局読めなかった本もたくさんある。郵送の手間と料金だけがかかったというわけである。

前の任地(地方の村)にいた時は、仕事は少なく、勤務後も娯楽場所はなかったので、ちょこちょこと本を読み進めていた時期もあったが、首都に移ってからは仕事が忙しくなったのと、部屋にテレビが付いていたので、本よりもテレビになってしまった。日本でもだいたいそんな感じだったんだけどね。

もっと語学勉強すればよかった…

これも読書と同じような感じ。村にいた時は、現地ではキルギス語のほうが多く使われていたので、キルギス語を独習していたが、首都に来て、職場が変わってからはロシア語中心となり、キルギス語の勉強は遠ざかってしまった。

ロシア語の勉強はしていたが、日によってむらがあったのがよろしくなかった。語学は、①基本的な文法事項を短期間で総ざらいして、②その後は、一定量の学習(単語、文法)を継続的に取り込むのがよい、という感じがする(これって、協力隊の語学訓練のやり方なんだけどね)。

もっとウクレレ、ギターの練習をすればよかった…

こんな反省ばっかり。楽器の練習も毎日コツコツとやる以外に上手くなる道はないからねぇ。2年前の予定では、キルギス滞在中にもうちょっと上手くなっているはずだったのだけれど…

もっとキルギス国内旅行しておけばよかった…

まだ行っていない場所が結構ある。もちろん、限られた時間であそこもここも旅行できるわけはないのだが、もうちょっといろんな場所を訪れる機会はあったような気がする。と言っても、もともと出不精の気もあるから、無理に出かけるのも不自然なんだが。

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これらの「…しておけばよかった」をまとめると、「2年間、時間がたっぷりあるから、いろんなことができるぞ~」と思っていたけれど、結局、たっぷりある時間を大して有効利用せずに終わった、ということになろう。

2012/07/05

床屋がうれしがる

髪を切りに散髪屋に行った。どのように切るかと理容師に尋ねられたが、私にとっては髪形の注文を言葉で説明するのは、日本において日本語でするのですら難しく感じる場合があることである。

別にアイドルでもファッションモデルでもないので、「見た目が変でなければなんでもいい」というのが、私の注文なのであるが、当然、それでは向こう(理容師)もやりづらい。正直なところ、「プロのあなた(理容師)がいいと思うようにやってください」とおまかせにしたいのだが、その結果、不満を言う客もいるだろうから、理容師側も客の望みを訊かずにはおれないということだろう。

そんなふうに難しいと感じる散髪の注文である。いわんや、ロシア語で、となればなおさらである。

今回、入った散髪屋は3人の理容師がいて、うち2人が男、1人が女。私の担当になったのは男であり、その人の髪の長さもだいたい私が切ってもらいたい程度の短さだったので、「どうするの?」と訊かれた時、「あなたと同じような感じで」と答えた。キルギスでも日本でも「フツー」という印象の髪形である。

で、しばらく散髪作業が進んだところで、理容師が「『オレとおんなじように』って注文した人は初めてだ」と言ってきた。実際、そうなのだろう。推察するに、キルギスの男性でそういう注文するのは一般的ではないのだろう。

いや、日本でだって、「床屋さんとおんなじ感じで」と頼む人は聞いたことがない。私も日本語ではそういう注文をしたことがない。面倒とはいいながら、「横、ちょっと刈り上げ気味で…」みたいに説明する。

「そんなふうに注文されるのは初めてだ」と言いながら、理容師の男はちょっと照れるというか、満足気というか、小さな笑いを顔に浮かべていた。間接的には自分の髪形を褒められたと受け取れなくもないから、それでうれしくなったのかもしれない。

10分強で散髪は終わった。値段は100ソム(バコンバエバ村では50ソムだったと記憶しているから、倍である)。ちなみに、こちらでは洗髪はないのが普通である(「美容室」であればあるかも。私は入ったことがないのでわからないが)。

この話にオチをつけるとしたら、その理容師の髪形が、モヒカンとかでなくてよかった、ということである。

2012/07/04

封筒が売ってない

封筒が売っていなくて、自分で封筒を作ったわけ(というより子供たちの課題として作らせた)だが、本当にキルギスでは封筒は売っていないのだろうか?

手製の封筒(あくまでも教室内の課題に使うための物。これで郵便を出すことはたぶんできない…)を作った後だったが、キルギス人に「キルギスでは封筒は売っていないのか?」と質問してみた。

その相手によれば、「封筒は郵便局で売っている」のだという。なるほど、私が文房具店を探し回っても見つからなかったわけだ。日本で封筒を購入するとなれば、まずたいていは文房具店、もしくは今なら百均ショップへ行くだろう。日本の郵便局で封筒を買ったことなんか私はないから、そもそも郵便局で封筒が売っているのかどうかさえ知らない(文を書き込んで、それを折って封筒にするような郵便物があるのは見たことがある。配達料が普通の封筒で送るよりも安いはず)。

面白いもので、ここ(キルギス)は日本ではないのに、封筒を買おうとするとついつい日本と同じように文房具店を探してしまうのである。自分の中に「封筒=文房具店」という図式があるから、他の国でもそんなものだろうと疑わずにいるのだ。現地の人にしてみれば、「そんな所を探しても、あるわけないじゃん」ってなものに違いないのだ。

同じようなことが、別の物でもあった。

料理をするのに片栗粉がほしかったので、スーパーマーケットに行って小麦粉を売っている棚の近辺を探してみた。まあ、粉類はだいたいそのあたりで売られているはずである。簡単に見つかると思っていたので、「片栗粉」をロシア語でなんというか調べずに行ったのだが、これがなかなか見つからないのだった。

私の頭には「片栗粉=紙袋に入って販売」というイメージがあって、しかもその紙袋というのは細長い形状なのである。これは日本で売っている片栗粉の商品パッケージのイメージなのであるが、それと同じように売っているとは限らないとは思い至らずに、キルギスでも同じような紙袋で売られているに違いないと思い込んでいた。

しばらくは「キルギスでは片栗粉売ってないねぇ。コーンスターチとかで代用してるんだろう」と解釈していたのだが、片栗粉を使う料理をすることになり、あらためてロシア語でチェック(крахмал /クラフマール/ と言う)し、近くの小さな商店で尋ねてみたら、すぐそこにいくつも並んでいたのであった。

パッケージはプラスチック袋で、日本で言うならばお好み焼き粉なんかがそんな感じで売っていた気がする。さらに、その袋の中に別のビニール袋に入れてあった(二重の袋)。ハハハ、紙袋パッケージで探しても見つかるわけがない(ちなみに、кра.малは澱粉《でんぷん》の意味で、パッケージに「じゃがいもの~」とあるのが片栗粉、「とうもろこしの~」とあるのがコーンスターチになる)。

間違っていると気づくまでは、思い込み自体が自分にとっては正解だから、やっかいなものだ。

2012/07/03

楽して課題作り ~「援助」と「手抜き」~

封筒がほしいと思って、文房具店を探したのだが見つからない。どうも、キルギスでは封筒はあまり一般に使われていないようである。

封筒がほしかったのは、別に誰かに郵便を送りたかったわけではなく、自閉症児の指導教室で課題として使いたかったのだ。日本で障害者の作業所で勤めていたとき、ダイレクトメールの発送の下請けみたいな仕事で、封筒に広告チラシなんかを入れる作業があった。そういうのの練習と思って、今教えている子供たちにもやらせてみようと思った次第。

ところが封筒が手に入らないということがわかったので、さてどうしようかと思案し、手製の封筒を作ってしまおうと考えた。製図して、切り取り線、折り線、糊付け部分を示して、封筒を作ること自体を子供の課題にした。結構、手順・工程が多い作業だし、線に沿って切る・折るとかは連合した運動機能が身についてないとできないので、すべての子供にさせられはしなかったが、何人かの子供には工作課題になった。

こうして、私は封筒を自分で作る手間を省くことができて、子供たちも新しい課題を経験することができた(かつ、それは次の課題の材料として使われている)。

対象者が子供、障害児・者だという思いがまずあるので、こちらでお膳立てしておいて何かをやらせるという発想になりやすいのだが、過度にお膳立てをすることは、相手のできる(はずの)ことをこちらが奪ってしまっている危険もある。

福祉サービスの従事者は「援助者」という立場だから、「他者を援助する者」として自己規定するわけだが、「私」が他者を助けるばかりが援助とは限らない。時には「私」はあまり手伝わずに本人にやらせることも、その本人にとっては自立度・自律度を高めるための援助になる。

いわば、援助者が意図的に「手抜き」をすることになる。「手抜き」という日本語はイメージがよろしくないが、とにかくあんまり手を出さないということである。援助者である「私」なんていなくても、その子供、障害児・者はなんとかやっていけるようになるのであれば、それこそ援助者としては目的達成である。対象者がいつまでも「私」なくしては生活できないような援助は、相手に依存されるという点では、相対的な「私」の自己存在感を感じることはできるが、援助者としてはいかがなものか、と思う。

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(本文とは直接関係はないかも。いや、やっぱ、ある。)

2012/07/02

日本のカレー粉

カレールーではなく、カレー粉でカレーを作ったという話を書いたが、その後、日本にもカレー粉が売っていたのを思い出した。

カレールーのトップメーカーがそれぞれカレー粉も発売している。

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赤缶カレー

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カレーパウダー

どちらも赤基調のデザインなのは、たぶんS●Bのほうが古くて一般的で、そのイメージをハ●スも追随しているからであろう。「パクリ」と言ってしまえば元も子もないが、このサイズの赤い缶はカレー粉だというイメージが流布していれば、陳列棚やキッチンで見つけやすいのだから便利だ。

それぞれメーカーサイトにカレー粉を使ったレシピがたくさん掲載されていた。カレーだけでなく、使い方にはいろんなアイデアがある。こういうのを見ていると、日本に帰ったら試してみたいと思わずにはいられない。

完成度の高いカレールーが幾種類も販売されているのに、いまだに古典的なカレー粉が売られているのは、単にカレーだけでなく、他の料理にもカレー風味をつけるなどの使い方で活用している人が多いからだと推測する。というか、そういう使い方はかなり広くでされていて、私が世間知らずというか、アイデア貧困でやっていなかっただけという気もする。

う~ん、ますます早く日本でもカレー粉でカレーを作ってみたくなってきたぞ。

2012/07/01

ええもん、みっけ!

テレビのチャンネルをテキトーに回して、たまたま音楽専門チャンネル(ロシアの番組)のところで、私にとってはすごく感覚を刺激されるコーラスが流れていた。ロシアのどこかの地方の民謡を現代風に歌うグループのようで、グループ名を知りたいと思って、番組に出てくる字幕や、司会者が言っている言葉に注意をして見て・聴いていた。

ПОВЕРЬЕ1
(音楽番組のテレビ画面をデジカメで撮影)

で、このグループは「ПОВЕРЬЕ」というフォークロア・アンサンブル(民謡合唱団)だということがわかった。

「ПОВЕРЬЕ」の発音は/パヴェーリェ/で、「言い伝え」という意味のロシア語である。なんか、その名前もいい雰囲気ではないか。

日本では知っている人はほぼいないグループに違いないから、このブログで紹介してしまう。いくつかの曲がMP3ファイルで落とせるサイトがあった。

http://www.realmusic.ru/poverie/

この中の「скачать」(ロシア語で「ダウンロード」の意)と書かれているところをクリックすると、MP3ファイルがダウンロードされる、もしくは再生されるはずなので、ぜひ試しに聴いてみていただきたい。民謡独特の周波数というか、合唱のピッチのずれが心地よいのだ。北欧の民族音楽なんかに近いのではないか。

YouTubeでも動画を見つけることができた。自分のパソコンからはロシア語を入力できないという人もいるだろうから、上のグループ名のところをコピーして、YouTube内で検索をすれば簡単である。

動画を見た人からは、「ウクレレちゃんがこのグループを気に入ったのは、歌声がどうのこうのと言っているが、本当は、歌っている女の人たちがべっぴんだからに違いない」という声も聞こえてきそうだが、それもなくはないかも…。

ПОВЕРЬЕ2
(リーダー(?)の女性。インタビューにはほとんどこの人が応えていた)

ビシュケクで天体写真

ビシュケクはキルギスの首都で、途上国とは言え首都はやはり電気・街灯も整っていて夜でも明るい。バコンバエバ村で見ていたような星空は望むべくもないのだが、「ものは試し」で天体写真を撮ってみた。

IMG_2623

手前の建物に一部が隠れてしまったが、北斗七星がきれいに撮れた。

2012/06/29

身近にあるブッダ・デザイン

キルギスと玄奘三蔵ついてブログに書いたことがあった。現在はイスラム教が主流となっているキルギスであるが、玄奘が唐からインドへと旅をした頃は、キルギスでは仏教寺院が数多くあったそうである。

イシククル湖の脇を玄奘は通った(シルクロードである)はずなのであるが、かつてイシククル湖の北側には仏教寺院が存在したそうで、玄奘も訪れたであろうということだ。湖の水位が上がったり、湖の位置がずれたりしたことで、それらの寺院は現在、湖底に沈んでいる。

湖底に沈んでいないものも含めて、キルギス国内にはまだまだ仏教関連の遺跡がたくさん眠っているはずなのであるが、限られた国家予算の中で、現在の自分たちの信仰とは別の宗教の遺跡を発掘するところまでは手が回らないのか、放置されてしまっている。日本の考古学調査隊とか、来てくれないものか…

さて、話は変わるが、(確か)昨年から売り出された「ISSYK ATA(イシック・アタ)」というガス入りのミネラルウォーターがある。イシック・アタというのはキルギス語で、直訳すれば「温かいお父さん」という地名である。たぶん、そこの水の質が良いので、それを銘柄にして売り出したのであろう。

このミネラルウォーターはペットボトルで売っているが、ボトルの色がエメラルドグリーンで爽やかな感じがする。そして、ラベルを見てみると、

issyk-ata

こんな絵がプリントされている。どう見ても仏(いや、詳しくないのだが、菩薩とかなのかも知れない)の絵である。このミネラルウォーター、よく売れているということも書き加えておく。

こういうものが許容されるキルギスって、不思議な感じがするのである。赤道に近いほうのイスラム教国で、こういう製品って売り出されることは私にはイメージしづらいのだ(勝手な思い込みなんだけどね)。

そういえば、ビシュケクには「Buddhist Cafe」というカフェもある(高級店らしいので、まだ行ったことがないが)。この辺もキルギスらしさと言えるかもしれない。

2012/06/28

中古のほうが高いのはなぜ?

Amazonで本をあれこれ見ていて気づいたのだが、その本の中古が出品されている中に、定価(新品の!)よりも高い値段で売られている物がある。

たとえば、

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4344982487/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4344982487/sr=/qid=/ref=olp_page_next?ie=UTF8&colid=&coliid=&condition=used&me=&qid=&shipPromoFilter=0&sort=sip&sr=&startIndex=15

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4480062459/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

とか。探せば、まだまだいくらでも出てくると思う。

これらの本は、別に稀覯本というわけではなくて、実際、定価よりも安い出品している業者もある。そういう中にあって、定価よりも高い値段で出している業者いるというのは、どういうわけ?

想像だが、うっかりな人が、間違えてそういう業者のところをクリックして購入してしまうのを狙っているとか? だとしたら悪質。

まじめに値段設定をした結果がこれなのだとしたら、それはそれで中古本を扱う業者としては問題であろう。

2012/06/27

カレールーがなくても、カレーを作れた

私などは、市販のカレールーでしかカレーを作ったことがなく、インドカレーのようにスパイスを調合して作るカレーは憧れである。

マレーシア赴任、バザール(市場)でスパイスが売られていて、自分ではどのスパイスを買えばよいのかわからないので、店のおじさんにカレー用のスパイスを調合してもらって、それでカレー作りに挑戦してみたのだが、肉と野菜のスパイス煮込みみたいになってしまい、さんざんな出来であった。

キルギスに来た時も、カレーは食べたくなるのが分かっていたので、日本の家族から荷物を送ってもらう際に、カレールーを入れてもらった。ただ、カレールーがなくなるとカレーを作れなくなるという問題があった。

自分が村から首都に引っ越してから気づいたのだが、首都のバザールではカレーのスパイスが調合済みのパッケージで販売されている。

curry spice
(ビシュケクで見つけたカレースパイスのパック。ロシア製品のようだ)

ただ、これはスパイスを調合したものなので、日本のカレールーのように、入れれば美味しくでき上がるというものではない。店頭で見つけて、迷わず買ってみたものの、私にはマレーシア隊員時代にスパイスでカレー作りに挑んで失敗した記憶が甦った。

しかし、あれから約10年。独り暮らしの自炊生活を積んできたおかげか、今度は何とかなるという気がした。果たして、キルギスでのカレー作りは、まずまずのでき上がりになった。マレーシアで失敗した時と比べると、

  • 肉、野菜を炒めた後、小麦粉を加えて炒めた (これが後でカレーのとろみとなる)
  • 煮込む際、固形スープの素を加えた (スパイスだけではうま味は出ない)
  • 昔のCMを思い出し「りんご(を擦ったもの)とはちみつ(の代わりに砂糖)」を入れた (ありがとう、ヒデキ! 感激!)

これらのことを抜かして作ったのだから、マレーシアで作ったものが美味しくならなかったのは当然なのであるが、当時はどうして美味しくならないのかわからなかった。

ということで、将来、キルギスに協力隊員として、あるいは企業の駐在員として来るかも知れない人たちのために、カレースパイスのパッケージを使ってカレーを作る手順を掲載しておく。

  1. 切った肉、野菜を炒める。 (玉ねぎは弱火で時間をかけて炒めると甘みが出る、ってサ)
  2. カレースパイスを加えて炒める。 (辛味がほしい人は、別途、赤唐辛子の粉末を購入して加える)
  3. 小麦粉を加えて炒める。 (だまにならないように注意)
  4. 水を加え煮込む。その中に、固形スープの素を入れる。 (固形スープの素は、具材の量に応じて調整)
  5. 煮込みの途中で、すり下したりんご、はちみつを入れる。 (これらがなければ砂糖を少々)
  6. 具材に火が通ったら完成。

これ以外に、ウスターソースがあれば入れると味が複雑になってより美味しい。ワインを入れるというのもありかもね。あとは、ケチャップ、またはトマトピューレ、トマトのざく切りなんかを入れるのもよろしいかと。

こうして、カレールーがなくても、カレーを作れるようになり、私の独り暮らし食生活はかなり安定することになり、その後、しばらくは、遊びに来た隊員には必ずカレーを押しつけがましくふるまったのであった。

カレーがない!

とにもかくにも、日本人にとってカレーライスは欠かせない料理である。思い返してみると、今まで「カレーライスが嫌い。食べない」という人には会ったことがない。もしそんな人がいれば、絶対に記憶に残っているはずであるが、誰も思い出せないということは、私がそういう人にはまだ会ったことがないからであろう。「ジャガイモ入りのカレーは嫌い」とか「ナスとかピーマンは入れないでほしい」という好みは聞くが、カレー自体が嫌いという人はいないのである。

この類の話であれば、私なぞよりも熱く語れる人はたくさんいるのであって、私が駄文を付け加える必要はないのであるが、今回、私が言いたいのは、「協力隊にとってのカレー」あるいは「キルギスで生活をする日本人にとってのカレールー」っちゅうことなのだ。

日本の食文化の中で育った者の誰にとっても欠かせないカレーであるから、当然、協力隊に赴任している2年間でも食べたくなる。たとえば、インド、バングラディッシュなどのカレー発祥の地、本場に派遣される隊員であれば、現地でカレーを飽きるほど(って、言い方が悪いかな?)食べられるに違いない。実際、バングラディッシュでは朝昼晩の三食ともカレーで、それぞれが違った食材、違った味付けで出てくるので、そのバリエーションの豊富さに感動すると聞いたことがある。

私が前回赴任したマレーシアでも、インド系住民がカレーを伝播して、普通にマレーシア料理の一部となっていた。ダールカレーやマトンなど、日本ではあまり馴染みがなかったカレーも味わうことができた。美味かった。

では、インド料理が一般的でない地域ではどうか。キルギスなんかはそうである。協力隊での2年間、カレーが食べられないのはつらい。そこで、我々の頼みの綱は、日本から持って来たり、郵送してもらった日本製のカレールーとなる。

キルギス協力隊を見ても、日本から荷物を送ってもらう際、結構な割合でカレールーを頼んでいる。「やった~、カレールーが届いた。みんなでカレーパーティーをしようぜ~」と喜びのカレーパーティーが催されるのだ。しかし、一方でカレールーのストックがなくなりかける「これがなくなったら、カレーが食べられなくなる…」と不安にもなる。

と、まあ、カレーに関するキルギスでの切実な状況を書いたのだが、実のところ、首都のビシュケクにはインド系(パキスタンとかかもしれない)のレストランが何件かあり、そこでカレーを食べることができる。インド式カレーなので、日本人がカレールーで作るものとは食材や風味が異なるが、本式なのでやはり美味しい。

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(やった~、カレーだ! しかも本格的)

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(シタールも飾られて、インド風を演出)

インドカレーの店があるなんて、やっぱり首都だけのことはある。田舎の村では、メニューのどこにもカレー風味のものはなかった。でも、結構なお値段がするので、一度行ったきりなのだ。こことは別にとあるフードコート内にもインド料理屋があって、カレーが美味しかったのだが、値段は通常のキルギス料理に比べたら高かった。

カレーを安く食べることはできないのか… (続く)

2012/06/25

「あと一ヶ月」と言えば...

7月末に協力隊員としての任期が終わるので、任期の残りもあと1ヶ月である。この話は、ここ最近、何度か書いているので、「またか」というネタなのであるが、あと1ヶ月のものがもう一つあった。

ロンドンオリンピック。

これも約1ヶ月後に始まるのだ。

オリンピックって、4年に開かれる一度のビッグイベントのせいか、自分の人生のそれぞれの時期と重ね合わせて回想する人も多いのではないか。「ロサンジェルス五輪の時は、大学生だったな」とか「ソウル五輪の100m決勝は、△△と一緒にテレビで観たな。あの時は中学生だった」とか。

ロンドン大会の開幕は7月27日なので、私が日本に帰るその日である。ということは、競技の中継は日本で見ることになるんだな。帰国直後で、報告会やら健康診断やらでバタバタしていて、あんまり中継を見る時間もないかも知れない。それもまた思い出になるのだが…

開幕まで1ヶ月ということで、日本ではだんだんとオリンピック気分が高まってきているのではないかと予想する。ネットでニュースを見ていても、そういう話題が出ているし。

ただ、ここキルギスではさほどオリンピックが話題になっている雰囲気がない。一つには、参加する競技種目が少ないということがあるのかもしれない。キルギス選手が得意な競技は、レスリング、ボクシングといった格闘系の個人競技。サッカー、バレーボール、バスケットボールなどのボール競技、チーム競技は出場権を得られるほどのレベルではない。残念ながら。

他の国へ行った協力隊の人もそうだと思うが、自分の派遣された国の選手・チームが、こういう大きなスポーツ大会に出ているのを見ると、どこか身びいきみたいなものを感じて応援したくなる。私の場合なら、キルギスとマレーシアの選手たちを応援する。

日本の代表選手・チームたちも含めて、熱戦が見られることを期待している。

2012/06/24

般若心経を覚える…

そういえば、同期の隊員と「協力隊にいる間に『般若心経』を暗記しようじゃないか」と言って、「よ~し、言ったな、こいつぅ。じゃあ、来月までにどこまで覚えたか競争しようぜぇ」みたいなのりであったのだが、その後、一行たりとも覚えていない。

なんか、我々二人のそのいい加減さ自体が、ありがたいお経からは縁遠いことの象徴のような気もする…。アーメン(って、ひどいね、ホント)。

2012/06/23

【マルシュ百景】 荷物輸送としてのマルシュ

ずいぶんしばらくぶりのマルシュルトカ(маршрутка)の話。

マルシュルトカ(乗合いワゴン)は、自家用車がない人にとっては、国内移動をする際の一番の交通手段である。私も村に在住の頃は、首都と村の間を長距離マルシュ(日本人の中ではマルシュルトカを略してそう呼ぶ。地元の人は使っていない呼び方)で移動するが常であった。

マルシュの乗り場に行くと、本人は乗らずに荷物だけ預ける人を見かけることがあった。どうするのかと不思議に思って見ていると、運転手に電話番号を伝えている。そのままマルシュは出発。

何時間か走って、どこかの村に近づくと、運転手が誰かに電話をする。「もうじき○○に着くぞ。あんたどの辺にいんの?」みたいなことを話している。これは荷物の受取人と話しているのかと聞いていると、果たして、しばらくすると道端に人が立っていて、マルシュもそこで止まる。そして、預かってきた荷物を渡すのである。

ふ~ん、マルシュは荷物輸送の手段にもなるのだね。金を払えば「宅配」もしてくれるのかも知れない(あまりにも奥地は無理だろうけど)。

キルギスでは郵便局による小包の郵便サービスは整っていない。荷物を遠くの家族・知人に届けようとした時に、その方面に行く誰かに預けるか、そういう人がタイミングよく見つからなければマルシュの運転手に預けることになるようである。

日本国内に住んでいる人は気づきにくいことだと思うが、日本の郵便サービス、加えて民間の宅配サービスというのはすごくきめが細かく、かつ高い質である。そういうサービスがある国であることを日本人は誇ってよいと思う。

日本のような配達サービスが整っていないキルギスでは、マルシュのような人の移動手段に便乗させて荷物を届けるのだ。それも地元の人の知恵である。でも、携帯が普及するまでは、そういうのも思いつかなかったかも。あるいは、受取人が主要な停留所まで行ってまっておくとか、かな。

2012/06/22

Сезон арбузов!

スイカの季節が来た!

arbuz
(バザールの露店で)

値段は一玉150~200円。日本のスイカの値段と比べたら、信じられないくらい安い。上の写真で、スイカと一緒に並んでいる黄色っぽいフルーツはメロン。スイカとメロンは同じ時季に出回る。メロンのほうは一玉50~70円。やはり安い。

当たり外れはあるが、スイカもメロンもおおむね甘くておいしい。冷蔵庫があるなら、冷やして食べるのがよろしい。夏の暑さにほてった体にひんやりとしたのどごしと甘さがうれしいのだ。

キルギスの人がスイカを切るのを見ていると、まな板の上ではなく、皿の上、もしくは手の上で切っていく。スイカに限らず、キルギスではまな板を使うことは少ない。スイカをまず真っ二つにして、さらにその半分に。その時に食べる人数にもよるだろうが、今切った断面を横に切っていく。まあ、日本でも切り方は一緒だから想像しやすいだろう。

日本ではスイカに塩を付けて食べる人がいるが、こちらでも何度かそういう食べ方をする人を見たこがある。

種は、日本に比べて飲み込んでいる人が多い印象である。私は種を除いて食べる、または口に残った種は吐き出すが、これも慣れの問題みたいで、種ごと食べている人は、だからと言ってスイカをまずく感じることもないようだ。

湖畔に遊びに行った時や、人を招いての食事の時に、切られたスイカが出てきて、みんなが「わぁ、スイカだ~」と喜んでいる場面。あれの雰囲気がいい。

食事会、プレゼント…

任期が残り少なくなると、任地での仕事の関係者、プライベートでの友人などから、「帰る前に一度食事を」と招待を受けることが増える。

もちろん、そうやって声をかけてもらうのは大変うれしい。障害児の指導をして、親がそうやって招待をしてくれるのは、私の指導の結果を好意的に受け止めてくれているから、ということもあるだろうから、ホッとする気持ちもある。

そうは言っても、帰国前というのは荷物の片付けやら、JICAへの報告の準備やらで、バタバタするのが常で、そういう時期に食事会が入ると、なおさらバタバタするのである。しかも、ボランティア同士のお別れ会みたいなものもあったりするし。

そういうのを見越して、帰国の準備を早くから済ませておける人もいるようで、私などは一生涯かけてもその段取りを身に着けることはできないものと諦めているが、要は帰国前にバタつくかどうかは個人の問題と言えなくもないわけだ。

食事の招待とともに、帰国時に悩まされるのが記念品のプレゼントである。プレゼントをくれる人の好意を台無しにする、人情知らずのたわ言を承知で言えば、帰国間際に荷物が増えるのはすごく気が重い。相手が好意・厚意で用意してくれたことがわかるだけに、置いていくのも心苦しい。

特に「勘弁してくれ~」と思ってしまうのが、陶器の皿とかコップの類である。「どうやって日本に持って帰ろう、これ?」となってしまうのだ。関係者には、あらかじめ「プレゼントは不要です」のお知らせを出そうかと本気で悩んでいる。

これは自分が「もらう側」として困っているという話だが、逆に自分が誰かを送り出す時には「あげる側」の悩みに転じる。形あるもので、かさばって壊れやすい物は、自分がもらったら困るので、人にもあげたくない。そんなことを悩んでいるうちに、別れの記念品なんてもらう必要もなければ、あげる必要もないと割り切って、握手して「ありがとう、さようなら」で十分だと考えるに到っている。

図書券、ビール券みたいな選択肢もなくはないだろうけど…。そういえば、キルギスではそういう金券の類を見たことがないなぁ。

2012/06/20

ブログ更新、停滞気味

このブログはできる限り、一日一エントリー(記事)と思っているのだが、更新が思うようにできていない。

新しい配属先に移って、自分の専門の自閉症に関わる仕事ができるようになって、前の配属先にいた時と仕事の状況が一変した。

自閉症児の個別指導を、私一人がやっている状況、かつ新しく開設した指導教室なので、教材の開発・作成や、個別支援記録などの書式作成、またそれへの記入を、ほぼ独りでやらなければならない状況となっている。

これは忙しいからと愚痴っているわけではなく、本当のところ、協力隊員として仕事が忙しいということは、それだけでも大変ありがたいことなのだ。協力隊で現地に行ってみたものの、さまざまな理由で仕事がなかったり、職場の中で役割が見つからなかったり、やってみても周囲の反応が薄かったり、ということで行き詰って悩んでいる隊員は案外と多いのである。

私自身も、前の配属先は、ある意味ではそういう状況で、ただ自分自身がいい加減なので、「相手がやる気がないのなら、何を言ってもやっても伝わらないな」と見切りをつけて、勤務時間中にパソコンでDVDを見ている同僚たちには構わずに、センターに来る子供たちと関わるというような感じであった。

それに比べれば、やることがあれこれとあって忙しいというのはありがたい。語弊があるかもしれないが、忙しいということは、それだけでも充実感を得られることも多い。やっている中身が有意義かどうかは別にして、とりあえず忙しいというそれだけでも「なんかしら活動はしている」という感覚はもてる(つまり、私が忙しくしているからといって、中身のある隊員活動をしているという保証にはならんということ。それは自覚しておかねばね)。

そんな状況もあって、ブログが更新できない日も続いてしまっている。という言い訳を書きたかったのだ。

実は、このエントリーも、表示されている日付よりも後に書いている。投稿した日は、ページソースとかRSSとかのどこかに記録されているのかも知れないが、表示されている日とずれがあるのはそういうことである。ご勘弁を。

2012/06/19

夜9時まで明るい

緯度が高いせいだろうが、キルギスにおける夏場の日没時間は、(日本人的感覚からすると)すごく遅い。

ここ最近だと夜7時半ごろまで昼間のような明るさで、8時ごろから日が落ちてきたように感じ始める。で、夜9時ごろでもまだ薄明るい。

私は集合住宅の一室に住んでいるのだが、建物の前が公園になっているため、子供たちが遊んでいる声が夜9時過ぎでもまだ聞こえてくる。「こんな遅くまで子供を外で遊ばせておいて、親はどうなってるんだ」と思うこともあったが、外が明るいのだから「こんな遅く」という感覚でもないのだろう。

それに、子供がこんな感じで外で遊んでられるのは、キルギスの治安が良いということとも解釈できる。あと、日本と決定的に違うのは、子供の数が多いことである。少子化日本では昼間でも子供の喚声《かんせい》が聞こえることは珍しい。

夏は日没時間が遅いが、当然、冬はその逆で、日没時間は早くなる。夕方4時半くらいから薄暗くなって、5時半には真っ暗である。キルギスでの冬は2季とも、私は村で暮らしていたから、街灯もなく、真っ暗な道を職場から帰る日もあった。

2012/06/17

キルギス「ビッグベン」

イギリスには「ビッグベン」という時計台があって、それがイギリスを象徴する物の一つなのだそうだ。BCCの国際放送でも、正時の時報はビッグベンの鐘の音が流されていたように思うが、私の記憶違いだろうか。

この写真は、ビシュケクの中心部(Чуй-Советская,チュイ-ソビエツカヤ通り)にある、キルギス電話公社の建物。ここに時計台がある。

鐘が鳴るわけでもなく、キルギスの人にどれだけ認知されているのかは知らないが、まあ、それなりに立派にそびえ立っている。

周囲にだんだんと高い建物が建ってきているから、そのうち、それらの建物に隠れて見えづらくなる日が来るのかも知れない。

2012/06/16

都会の真ん中で野良犬たち

ビシュケクの中でも中心的な通りを歩いていたら4匹の犬の群(というほどの数ではないか…)と遭遇。


(首都の大通りでも野良犬がいる)

これまでも何度かキルギスの野良犬の話をブログに書いたが、 首都のこんな大通りにも野良犬がいることに、私はちょっとした感動をする。日本で、東京の、新宿のど真ん中で野良犬がいるだろうか?

ふと思ったのだが、日本でたまに見かける車にはね飛ばされて死んだ犬の遺体、あれは日本にも野良犬がいるっていうことなんだろう。

ビシュケクでは野良犬がたくさんいるが、車にはねられて死んだ犬はあまり見ない(村へ移動する途中ではたまに見かけた。おそらく、夜間、暗くてドライバーが気づくのが遅れたり、よけられなかったりしたためだろう)。

野良犬たちを見ていると、結構うまく道を渡るのに驚かされる。

日本も、もっと野良犬たちが暮らしやすい国にならんものかね…。あ~あ、つまんない。

2012/06/15

арпа(アルパ)ビール

ビシュケクのОш(オシュ)バザールに隣接して、арпа(アルパ)ビールの製造工場がある。

アルパビールはキルギスのオリジナルビール。協力隊仲間では、店でビールを注文するときに「俺、アルパ」と言うのがお約束になっている。これは、某先輩隊員がよくそう言っていた(らしい)ので、それを懐かしみながら言うのである。


(アルパビールの製造工場)

арпа(アルパ)はキルギス語で「麦」の意味。ビールは「麦酒」と書くように、麦を原料としているから、「アルパ(麦)」というネーミングはストレートで分かりやすい。

この工場の敷地内にアルパビールの直売酒場があって、1瓶39ソムで買える。通常、食堂でアルパビールを頼むと、60~70ソムだから、直売ならではの安さである。

先日、一人で行ってみたが、シャシリク(串焼き肉)やポテトチップス程度のつまみが売られていて、設置されているテーブルはすべて客で埋まっていた。席に着けなかった人は、適当に腰を掛けられる人を見つけて飲んでいた(私は腰掛けもせずに立ち飲みしていた)。

キルギスに旅行する人は、ぜひキルギスのオリジナルビール「アルパビール」を試してもらいたい。

2012/06/14

自動販売機

第2ビシュケク駅の構内で見つけた自動販売機。

自販機
(第2ビシュケク駅ロビーの自販機)

菓子と飲み物が買える自販機で、ためしに何か買ってみようと紙幣(50ソム札)を挿入しようとしてみたが、吸い込まれず、結局買うことはできなかった。

なぜに自販機などを紹介したかと言えば、自販機はキルギスでは珍しい物だからである。私が知っているのは、この第2ビシュケク駅と、ЦУМ(ツム)という百貨店の2階にある物しか知らない。

日本でなら自販機は珍しい物でもなんでもない(商品の取り出し方法が変わっていたりする「珍しい自販機」はあるけど)。ただ、私が旅行などで行った経験や、人から聞く話では、日本以外の国では自販機というのは一般的でないことがほとんどのようである(私は事情を知らないのだが、韓国なんかはどうなのであろうか?)。

「なんでだろ~、なんでだろ~?」と思うのだが、一つには、多くの国では自販機は盗難の対象になりやすいからだという。確かに、自販機の中には売上げと釣銭の金が入っているし、商品自体もあるわけだから、犯罪者にとっては狙う対象になることは考えられる。

だから、日本のように屋外に自販機が設置されているのを見ると、多くの外国人は驚くらしい。そんなふうに商品が販売されている姿は、お国では見たこともなければ、想像さえしたことがないのではないか。確かに、私がキルギスで見た自販機の2台ともが屋内に設置された物である。つまり、昼間は店員なり駅員なりの目が届き、夜間は鍵をかけて人が侵入できない場所に置かれている。

そんな話を聞くと、自販機というのは、(悪化しているとは言われるけれど)日本の治安の良さの象徴のような物とも言え、ちょっと違った意味合いで見えてくる。

Сорта Спортов(スポーツあれこれ)

国、地域によって人気のあるスポーツ、競技人口の多いスポーツは異なる。日本だったら、野球、サッカーが筆頭で、他にバスケットボール、バレーボール、テニス、ゴルフなどと続くだろうか。いや、日本で一番競技人口が多いと言ったらジョギングかも知れぬ。さらに幅を広く取れば、ラジオ体操なんてのもありかも。

世界で一番愛好者が多いスポーツはサッカーということになるのかな? まあ、単一のスポーツでとってみればたぶんそうだろう。野球なんてのは、世界全体で見れば、かなりマイナースポーツである。キルギス人は野球(ベースボール)をやっている人は見たことがない(キルギス在住の日本人、韓国人、アメリカ人で対抗戦をやっていたらしいけど)。

まあ、スポーツの愛好に地域差があるのは当然で、太平洋の真ん中の島国で、アイススケート選手が誕生するかと言えば、それは絶対にありえない。逆に、キルギスからサーフィンの名人が誕生することもなり(海がないからね)。

テレビを見ていて、映画、ドラマは登場人物の言っていることが分からず、いまひとつ楽しみ切れないことも多いが、スポーツはそれがないから楽である。ルールを知っている競技であればなお分かりやすいが、仮にルールを知らない競技でも、見ていればだいたいは分かってくる。そんなわけで、スポーツ番組を見る時間が多くなっている。

さて、スポーツ番組を見ていて、日本人である私にはちょっと違和感があるのだが、よくビリヤードの試合を中継しているのである。ビリヤードって、日本ではスポーツには入れないと思うが、海外ではスポーツ競技として扱われているようなのだ。

まあ、ビリヤードは棒で玉を突く動作が入るし、玉突きのコントロールの絶妙さは、かなりのトレーニングの積み重ねによるのは間違いないわけで、そういう点では身体的な動きの要素は大きく、スポーツと呼んでもいいのかもしれない。

しかし、チェスとなるとどうだろう。チェスもスポーツ競技として扱われていて、放送されるのはスポーツ専門チャンネルである。日本には囲碁・将棋といったチェスに類したゲーム(特に将棋)があるが、日本人で囲碁・将棋をスポーツだと思っている人は少ないのではないか。学校のクラブ活動でもそれらは「文科系クラブ」として分けられている。

IMG_2065
(チェスはスポーツチャンネルで中継されている)

もし、囲碁・将棋をスポーツとして捉えている人がいるとしたら、それはおそらくそれらのゲームをかなり本格的にやっている人(プレーヤー)自身ではないかと思う。囲碁・将棋のタイトル戦なんかでは、対戦は2日にまたがって、それぞれの持ち時間9時間をほぼ使い果たすような戦いをしている。これは体力がなければできることではない。しかもその間、頭はほぼ100%思考し続けているのだから、すごいことである。

そう考えれば、チェスも囲碁も将棋も、スポーツというカテゴリーに入れても間違いではないという気もするが、日本ではどういう経緯か、文科系(⇔体育系)としてカテゴライズされた。ずっと座っているからかね。

そういえば、中国では麻雀がスポーツ(体育)に入っているそうである。麻雀も日本人感覚ではテーブルゲームであって、スポーツではないと思うのだが、麻雀発祥地ではスポーツになるのだから面白い。

これらのことを見ていると、「文科系」だとか「体育系」だという区分自体が、そもそも恣意的なものであるのだと気づかされる。だって、思考を伴わない競技はないし、身体を使わない競技もない。だから、日本人にせよ、日本以外の各国・各地域の人たちが、何をもって「スポーツ」と「スポーツでないもの」を分けているのかは興味深い点である。

何らかの形で勝ち負けを決めるものであればスポーツとして認められるのかと思ったのだが、でもおそらく、ポーカーなどのトランプゲームやルーレットなんかはスポーツとは言われないんじゃないだろう。ダーツはスポーツっぽい感じがするけど。他にも、文化によってスポーツか否かが分かれるものってありそうだ。

う~ん、それぞれの文化において、何をスポーツと見なすかは面白いテーマだと思うが、今からそれを考える気力はなし。今日はここまで。

2012/06/12

改修で職場が埃っぽい

キルギスの学校は9月始まりで、5月に学年度が終了。6~8月は夏休みとなる。3ヶ月の夏休みって、うらやましいけど、3ヶ月も学校教育をしない期間を作って大丈夫なのかと、お節介的に心配をしたりしている(そもそも、初等教育の入学も7歳だから、日本と比べたら、高校を卒業するまでに2年分くらいの授業時間の差があることになる)。

療育センターは学校ではないから、学年度に合わせる必要はないと思うのだが、学校の夏休みに合わせて1ヶ月程度は休むようである。以前、村にいたときに配属されていたセンターも、今のセンターも休みを取っている。スタッフもそれを楽しみしているんだろうなぁ。

私個人は、任期の残り数ヶ月で職場を変わったことがあるので、自分が担当している自閉症クラスは夏休みにはせずに、仕事を継続している。現在、このあたりは自分の裁量で決められる部分が大きいのでやりやすい。一緒に指導をして、ノウハウを引き継ぐキルギス国の人(キルギス人またはロシア人)がいないのが課題であるが、現時点では自閉症児の親・家族へ家庭でできる療育方法を伝えることでよしとしている。

さて、療育センターのほうは、この夏休み期間を利用して、建物内の大がかりな改修を行っている。

まず、窓が、窓枠ごと新しいものに替わった。私が担当している自閉症クラスの、昼休みの間に「1時間で終わるから」と言って、業者が来て取り替え作業をしてくれた。

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(新しくなった窓)

窓の後 は、トイレやキッチンを作り直しているようである。今まであったトイレの壁を、ガンガンと槌《つち》で叩き崩していた。やっているのは、センターの所持している送迎車の運転手である。そういう人が、内装工事をやれるところが、こういう国のすごいところである。

 remont

私が子供に指導をしている間も、別の部屋から大きな音が聞こえてくるのだが、子供たちは案外と平然と課題に取り組んでいる。頼もしいもんである。

こんな感じで改修工事をしているため、建物内がすごく埃っぽくなっている。職場にいると髪の毛もごわごわの手触りになっている。

それでちょっと心配になったのだが、これだけ埃っぽい中で過ごしているのは、体に悪いんじゃないだろうか。前の記事で、埃に対してアレルギー反応でくしゃみが出ると書いたが、職場で時折、鼻がムズムズするので困っている。

療育センターが間借りをしている建物は、おそらくソ連時代に建てられた物だと思う。埃を吸い込むだけでも体に悪いと思うのだが、ひょっとして、アスベスト(石綿)が使われているということはないんだろうか、とも心配になってくる。

いやいや、私なぞは別室で埃を気にしているだけなのだが、改修工事をやっているスタッフは直接埃を吸い込んでいる。マスクを着けているわけでもなく、このあたりの対策は何もしていないように思う(さらに、暑いから扇風機を回しながら作業している。埃が余計舞っていると思う)。

「途上国」と呼ばれるところでは、日本ではすでに当たり前になっている安全対策・健康対策が、まだまだ整っていないことが多い。人々の認識もまだそういうところに向いていないのが現実である。

すんごく風が強かった日

5月末、ビシュケクですごく強い風が吹いた。夕方6時ころだったのだが、キルギスでこんな強風を見たのは初めてであった。

木も風で倒れていたりして、万が一、電線が切れて自分の身に落ちてこないかと心配であった。と言いつつ、動画の撮影はしていたのだが…。

この時の強風で、細かいちりが舞い上がっていて、そのせいだと思うのだが、もともと花粉症もちの私に鼻水の症状が出始めた。なんか鼻の奥がムズムズする、あの感じもある。

こういう症状というのは、一度起き始めると、その次はちょっとしたきっかけでもすぐに反応が起きるから厄介である。ちょっと埃が立つとすぐに鼻がムズムズ、朝起きた時もくしゃみが出るようになった。

2012/06/11

あんずジャム

買ったあんずが食べきれないので、ジャムを作ることにしたという話を書いたが、できあがったジャムについての報告。

と言っても大したものができたわけではなく、自家用としては十分使用に耐えるできだったというところ。

キルギス人は、煮沸したガラス瓶に入れて、口を密封して、必要な時に瓶を開けて使うようだ。なにせ一本(あるいはそれ以上)のあんずの木から採れる分をジャムやジュースにするので、瓶の数も半端ではない。3リットルくらいの容積で、10本はゆうに超える数をあんず保存に使っている(あんず以外にもトマトソース、ピクルスなんかも保存している)。

私が作ったあんずジャムは1㎏足らずで、一人で食べる分だから、密閉容器に入れることもなく、タッパーに入れて冷蔵庫で保存。1ヶ月程度のうちに消費できれば、これで十分のようである。

できあがったジャムの写真も撮ったのだが、どうも写真での見た目はよろしくない…。見てみようという方にはリンクを貼っておくので、そちらに飛んでいただくことにしよう。

【写真】 自家製あんずジャム

パンにつけて、あるいは紅茶に溶かしておいしく使っているのだが、その際、口の中にあんずの繊維が残る。そうか、本当は実を裏ごししておかなければならなかったんだな…。ま、そのへんはテキトーでよしとする私であるが。

2012/06/09

あと2ヶ月、やっぱり健康第一

パソコンだの、デジカメだのが故障しないでほしいと書いたが、もちろん何よりも大事なのは命と健康。

ここまで大きなけがも病気もせずに過ごせた。マレーシアの時も2年間、体がもったのだが、、その時はそれが当たり前のように思っていたが、あれから10年経つと健康に対する意識というか、自分も歳をとったせいか、大けが・大病せずに過ごせたということがありがたい(漢字で書けば「有り難い」)ことだと感じる。

先日、隊員同士で外食した際、瓶ビールを頼んだら栓抜きがなかったので、どうしようかと話していて、歯で開けられる人がいないかということになったのだが、そんなことをしたら歯が欠けてしまうかも知れないという話になって、すると中の一人が「ukulele chanは、あと2ヶ月で日本に帰れるから、今、歯が欠けてもすぐ治せるからいいでしょ」と言った。

いやいや。あと2ヶ月だからこそ、こんな時期に歯が欠けると悔やみきれないことになるのだ。

任期開始直後に健康トラブルになるのも気が滅入るが、任期終了間際に健康トラブルのも「あ~あ、もったいない」という気になる。じゃあ、その中間だったら良いのかと問われれば、もちろんそれも歓迎できる話ではない。健康を害するのは、いつだって嫌なのに違いないのだ(なんという平凡な結論…)。

それにしても、この2年間を振り返ると、腹を下したことが二、三度、発熱もやはり二度くらいあったかというくらい。季節の変わり目(だと自分では思っているが)になると、咳が続くことがあるが、これは日本にいる時からだからそんなものだとあきらめている。

協力隊の中には、任期途中で健康問題で帰国せざるを得なくなる人もいるわけだから、大けが・大病をせずに来られたのは、やはりありがたいことだ。あ、ただし、私の場合、基礎体力はかなり落ちたという実感はある。ま、これも歳だから仕方がない。

2012/06/08

残り2ヶ月、もってほしい…

自分の協力隊員としての任期もあと2ヶ月を切った。「2年間も海外で、途上国で暮らすのか…」と不安も抱えつつ渡航してから、もうすぐ2年が経つ。

不安を感じていようがなんだろうが、過ぎてしまえば2年なんてあっと言う間。生活のペースはだいたい1週間単位で進んでいくから、2ヶ月と言うとあと8回分の週を過ごしたらおしまいということになる。ちなみに、22年度1次隊の同期隊員たちは6月中に任期終了になるので、彼らはもう1ヶ月を切っている。22年度1次隊のキルギス隊だけは、当時のキルギスの治安状況の問題で1ヶ月、出発が遅れたため、任期が終了する時期も1ヶ月遅れるのだ。

任期があとわずかになって思うのは、使っている物が「最後まで壊れずにもってくれ」ということである。特にパソコンはその最たるもので、メールをするのも、ネットを見るのも、写真データを保存するのも、文書を作成するのも、とにかくいろんなことをパソコンでやっているので、これが使えなくなるとダメージが大きい。

もう半年も前からパソコン、OSの動作があやしくなっていると感じていたが、先月、とうとう起動しなくなって、仕方なくOSの再インストールを実施。それで再び使えるようになったが、それまで入れていたフリーソフト類がまだ完全には復旧できていないので、不便は不便である。とにかくあと2ヶ月はトラブルなく頑張ってほしい(とは言うものの、やはりどこか動作が安定しない感じである…)。

デジカメもだいぶつらい状態になっている。どこへ行っても大抵は入手可能だという理由で、乾電池使用のデジカメにしているが、カメラのバッテリー格納部のふたが、閉まらなくなってしまっている。今は輪ゴムで縛ってふたが開かないようにしている。SDカードもときどき読み取りエラーが出る。

MP3プレーヤー、携帯電話のバッテリーは、蓄電量が前より下がっている気がする。これはどうしても仕方がないことだが、残り2ヶ月で新しいのを買う気はしないので、これも何とか持ちこたえてほしい。

パソコン関連機器ばかりを書いたが、それだけそういう物を使う生活に慣れてしまっているということであろう。ちょっと反省。それらの機器は、途上国では修理や交換がスムーズにいかない(売っていない、売っていてもどこにあるか知らない、見つけても純正品ではない、など)こともあって、帰国まで使用できる状態でいてほしいのである。

あんず、初もの

職場からの帰りに、路上であんずを売っているのを見つけ、その場で買った。

1kg50ソム。日本円だと約84円。信じられない安さ。

買ったは良いものの、1㎏なんて量を一人ではなかなか食べきれるものではない。で、昨年のあんずシーズンには村にいて、木になっているのを直接もいで食べていたから気づかなかったのだが、あんずは結構いたみが速い物のようである。

買った翌日には色が悪くなったのが出てきたので、どうしたものかと思案した結果、ジャムを作ることにした。

ネットで作り方を見てやってみた。材料はあんずの実と砂糖だけ。ネットではアクを取るように書かれていたのだが、どれがアクかが分からなかったので、構わずかき混ぜて終わり。はたして、どんな味に出来上がるか…。

apricot1
(種を抜いたあんずの実)

そういえば、路上であんずを買ったその日に、職場の庭でもあんずの実を見ていたのだった。こちらはまだ青い実で、サイズもまだ小さかった。

apricot2

ビシュケクのあんずはまだこの程度の育ち具合だから、路上で売られていたのはどこか別の地域から持ってきたものだったのかも知れない。

2012/06/03

ビシュケクの野良犬

ビシュケクの野良犬たちの動画。職場の前にあるごみの集積場所にたむろっていた。

2012/06/01

あざみ

職場の近くでこんな花が咲き始めている。

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誰かが、これは「あざみ」という花だと言っていたが、そうなのかな…。

独特の風貌の花である。バコンバエバ村近くの山でも、夏にたくさん見かけた。

2012/05/30

Train at Bishkek 2 station.

前に書いた第2ビシュケク駅(Вокзал Бишкек 2)で撮影した鉄道車両の動画。

鉄道ファンが見たら「!」となる映像なのかしらん?

一日に何便も出入りがあるわけではなさそうで、停留している車両がなんとなく手持ち無沙汰な雰囲気。

貨物運送としても使われて走行している姿も見たことがあるが、今は大型トラックにその座を奪われているようである。特に、中国からの物流は、キルギス-中国間の鉄道線路がないので、トラックにならざるを得ない。キルギスの線路は、ソ連時代にモスクワへの物流手段として作られたものなんだろう。

客車のある国内便も走っているが、こちらも利用する人は少ないようだ。一部の区間では線路と、車の幹線道路が並行しているのであるが、列車のほうが車に追い抜かれている。車より遅い、っていうのが、日本の鉄道の事情とはかなり違うんじゃないか。

車のほうが速いっていうことと、線路は国内のごく限られた区間しか敷設されていないことがあって、ほとんどの人にとっては鉄道移動は使い勝手が悪い。みんな、基本的にはマルシュルートカ(маршрутка、路線乗合ワゴン)か乗合タクシーを利用している。

帰国まで残りわずかだが、一度は乗っておきたいと思っている。乗車体験者によると、夏場は車内がめちゃくちゃ暑かったらしいけどね…

2012/05/28

入浴頻度

村でホームステイしていた頃、風呂に入るのはだいたい1週間に一度であった。1週間に一度、サウナを焚いてくれるのであった。

サウナを焚くのは、薪や干糞(牛などの糞を固めて干した物)をくべなければならないから、それなりに金のかかる話なわけで、毎日というわけにはいかないし、できるだけ大勢の人がいる時のほうが効率がよい。だから、家族のメンバーのうち何人かが不在の時は「今週は人が少ないからやめとこ」みたいなことになる場合もある。あるいは、「明日、誰それの家でサウナを焚くから行こう」と行って、出かけることもある。

とにもかくにも、村では風呂に入れるのはよくて週に1回なのである。それ以上入るのは贅沢とさえ言える。

田舎のほうに配属されている隊員の中には、週一度でさえ贅沢という人もいるようで、私が聞き及んだ範囲では30日間風呂(サウナ)に入れなかったという女性(!)隊員もいた。まあ、そこの村では普通の生活なのであろうが、それに順応できる隊員って、かなりたくましい(というか、順応せざるを得ないのであるが)。

さて、私は村から都市(首都)に移って、風呂の環境も大きく変わった。

まず何より、自宅にシャワーがある。以前のブログにも書いたが、温水は常時供給されている。だから、浴びたければいつでもシャワーを浴びることは可能である。

だが、私にしてみると、毎日シャワーを浴びることには、どこか抵抗感みたいなものがある。いや、私が無精者で汗を流すのを面倒くさがっているからだけではない(それがあることも否定はしないけどね)。

村で世話になっていたホームステイ先の人たち、またそれ以外の村人たち、さらには30日間風呂に入らなかった隊員のことを考えると、「毎日シャワーを浴びているお前はなんなのか?」と。別に、毎日シャワーを浴びたところで、悪いことは何もしてないのだけれど、同じ国の中で、1週に一度、あるいは1ヶ月に一度という頻度でしか風呂に入れない人たちを知っている以上、なんかそこに後ろめたさみたいのがある、ということなんだろうかね? (って、誰に訊いてるの、これ?)

私が任地を変更したのと同時期に、やはり同じ村から別の町に移った隊員(女性)がいたのだが、彼女とたまに会った時のあいさつは「風呂は週1回?」である。

すまんが、私はここ最近、3日に一度は入ってしまっている。ああ、村生活経験者としては堕落したな、オレ。

ただ、面白いことに、最初から町、特に首都に配属された隊員なんかは、毎日シャワーを浴びるなんて当然のことのようで、村生活経験者が入浴頻度がどうのこうのと言う話して、1週間に二度以上風呂に入る隊員を蔑んでいるような感覚っていうのが、どうも共有されないのですな、これが。いや、別にそれが悪いわけではないのよね、当たり前だけど。

生活環境、経済的条件によって、人の価値観なんていくらでも変わる、っていう話なんだろうと思う。自分が身を置いた場所でなければ、そこで感じるであろうこと、考えるであろうことを、実感的に想像するのって、たいがいの人にとっては至難のことであるだ。

まあ、ともあれ、こんなことをブログのネタにしている私なのであるが、日本に帰るのは夏のど真ん中。一日に3回行水する日もあろうというものだ。

ソフトの自動起動・常駐を止める

フリーソフトをインストールする際に、自分にとっては不要なソフトもインストールするよう誘導されるような仕掛けがあって困りものなのだが、これ以外にも困るのがソフトの常駐である。

ソフトの常駐はフリーソフトに限らない問題(と言っていいのか分からないが、少なくとも私にとってはそれは「問題」なのである)で、有料ソフト、大手ソフト会社のものと、出所を問わずにある。

これは何かと言えば、OSを立ち上げた時に、そのソフトが自動的に起動するように設定されていて、ユーザーは自分ではそのソフトを起動させた覚えはないのに、ソフトが動いている、あるいは待機している状態である。ウィルス対策のようなソフトの場合、真っ先に働き出してくれないと困るから、自動起動・常駐してもらって構わないのだが、中には必要がないのに自動起動しているのがある。

ソフトを追加するたびに、Windowsの起動時間がどんどん長くなっている、プログラムの処理も時間がかかるようになっているパソコンがあるが、問題の一つはこのような自動起動・常駐するソフトだ。

最近のパソコンユーザーの多くはSkyp●をインストールしていると思うが、これもインストール直後は自動起動するように設定されている。ブロードバンドでネット接続していて、かつSkyp●での通話を頻繁にしている人にとっては自動起動にしておいて、パソコンの電源を入れると同時にSkyp●もスタンバイ状態になっているほうが使いやすいのだろうが、現在の私のネット環境ではSkyp●は常時使うものではないので、自動起動・常駐の必要はなし。

余談だが、Skyp●の場合、いつ自分がログイン、ログアウトしたかが他人に伝わってしまうのも、私にはなんとなく気味が悪いので、ログイン、ログアウトも表示されないようにしている。仕事で使っているわけではないので、これも許されるだろうと解釈している。

他にも、G●M Playerや、MS● messengerなんかもデフォルトで自動起動になっているはず。

ソフトが常駐していると、そのソフトを使いたい時に、ゼロから起動させるより早く作業を始められるから便利な面もあるし、Skyp●や●●メッセンジャーのような通信用のソフト場合、相手から連絡があった時に対応するためには常駐させておくことが必要だという面もある。

だから、そのあたりはここのユーザーのパソコン使用環境によっても設定は変わってくるのだが、自分にとって必要のない、あるいは使用頻度の低いソフトが自動起動・常駐の設定になっていないかは見直す価値はある。

たまに、協力隊仲間からパソコンの相談を受けて、その人のノートパソコンを見ることがあるのだが、ほとんどの場合、タスクトレイにズラ~っと常駐ソフトのアイコンが並んでいる(ついでに言うとデスクトップもゴチャゴチャ)。もはや、当人もどのソフトが自分に必要かもわからない状態になっているように見受ける。

そういうのを見るにつけ、パソコンって、自分でプログラムを作れる人から、OSもネットもその他のことも、その仕組みについては何も知らずに、それでいて毎日使っている人まで、すごい幅の広い人たちが使っているんだなぁと、ある意味で感心するのである。

Вокзал Бишкек(Bishkek Station)

Я снимал фотографии вокзала Бишкек. (Pic1)

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(Pic1: Вокзал Бишкек/Bishkek Station)

По правде говоря, он назвается “Вокзал Бишкек 2”. Однако я не знаю, где первый вокзал находиться…

Отсюда могут ездить в  Москву. (Pic2)

時刻表
(Pic2: Железнодорожное Расписание/A Timetable of departures and arrivals)

These are photos of Bishkek Station.  Actually the name of station is “Bishkek Station 2”. Maybe, the Station 1 exists somewhere in Bishkek, though I don’t know where it does.

You can travel to Moscow from this station. It seems that every 4 days a trains depart from here, and also arrive to here.

Pic3 & 4 are trains which are standing by at the station. I think cars of trains are more than Japanese trains.

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(Pic3)

ビシュケクの鉄道駅。「ビシュケク駅2」と書いてあった。「2」ってことは、どこかに「1」もあるはずだが、どこにあるのか私は知らない。(Pic1 駅舎外観)

時刻表を見ると「ビシュケク-モスクワ」とあり、ここからモスクワまで行けることがわかる。駅員らしき(もしくは警備員)男性に訊いたところ、モスクワまでは4日かかるそう。(Pic2 時刻表)

私が行った時はいつも客がいなくてがらんとしているのだが、鉄道の出発・発着の日であれば人出があるのかも知れない。そういう時の駅の風景も見てみたいものだ。

train
(Pic4)

Pic3と4は、線路に停車していた車両の写真。Pic4の青い車両は動いて、旅客車両との連結作業をしてたみたいだった。鉄道マニアが見たら何の作業かだいたい察しがつくのだろうが、残念ながら私はその方面はとんと知識がなく、「あ、動いてる」程度の認識。動画も撮ったので、機会をみてアップしておく。

2012/05/27

不要なソフトをインストールしてしまう“罠”

昔書いた「Babylonのインストールはお勧めしない」という記事に、今もアクセスがある。ここは協力隊ブログであって、パソコンの専門ブログではないのだが、Babylonをインストールしてしまって困った人が、解決策を求めて検索をした結果、私のブログにも行き当たるのであろう(私の記事ではBabylonによるトラブルの解決策を示しているわけではない。レジストリをいじる必要があるようなので、本当に厄介なソフトである)。

今は、パソコンを購入した時のままで使うということはぼあり得ず、市販ソフト、フリーソフトを後から追加しながら使うのが当たり前である。で、フリーソフトを入れる時に、知らず知らずに陥ってしまう“罠”がある。

フリーソフトをインストールする時の手順で、最初に利用規約に「同意する」をクリックし、その後はインストール場所、フォルダ名などを指定する画面が出てくるが、たいていは変更する必要がなさそうな項目なので、内容の詳細を読まずに「次へ」をクリックしていく人も多いと思う。

で、最後まで「次へ」をクリックしていけば、めでたくインストール完了となるのだが、この手順の中で、よくよく読んでみると、自分が意図していないソフトが、“ついで”にインストールされるようになっている場合がある(ほとんどフリーソフトでそうである!)。

よく見かけるものとしては、

yah●o!ツールバー
Go●gleツールバー
a●kツールバー
JW w●rdツールバー
Go●gle Chr●me (ウェブブラウザ)
Babyl●n (多言語翻訳)
B●idu IME (日本語変換)

といったあたり。

いやらしいのは、これらのソフトについては、「●●をインストールする」という項目があって、自分で選べるようにはなっているのだが、デフォルト(最初の状態)ではインストールするほうにチェックが入っているのである。だから、ちゃんと読まずに「次へ」をクリックし続けると、“知らないうち”にそのソフトのインストールに同意したことになっているのである。

不要ソフトのインストール以外にも、勝手に同意するほうにチェックが入っている項目があって、「●●のショートカットをデスクトップに作成する」とか「●●をスタートメニューに登録する」とかは勝手にチェックが入っていることが多い。まあ、これらはそのまま進んでもそれほど悪い影響はないと思うが、私はデスクトップは極力すっきりさせておきたいので、デスクトップへのショートカットに関してはチェックを外すことにしている。

デスクトップ、スタートメニューについてはまだ許せるのだが、迷惑なのはファイルの関連付けを変えられてしまうケース。たとえば、デフォルトのウェブブラウザを変えられてしまったり、音声・動画ファイルの再生ソフトを変えられてしまうケースはよく見る。

もちろん、たいていの場合は、自分でファイルの関連付けを設定しなおすことは可能であるが、パソコン(Windows)に詳しくない人にとってはどうしてよいかわからず困惑するケースもあるだろう。また、自分で設定を変更しなおせる場合でも、設定を自分でやり直す手間は面倒である。

ネット上の記事を読むと、「インストールの時にちゃんとに内容を読まずに『次へ』をクリックする本人が悪い」と書いている人もいる。それは正論なのであるが、それならばデフォルトではチェックボックスにチェックが入っていないようにしておけばよいだろうと私は思う。その上でインストールしたいと判断するなら、自分でチェックを入れればよろしかろうに。

この手のソフトがインストールされやすいように、巧妙なやり方でユーザーを誘導しているのはいやらしいと思う。その一方で、有料ソフトにも匹敵するような優れたフリーソフトもあるわけで、「こんなに便利、優秀なソフトをフリーで使ってよいんだろうか」と思うことも多々ある。結局のところ、それらのフリーソフトは、ユーザーが本体ソフト以外にのソフトのインストールもすることで、有料ソフトの会社から一定の見返りがあるということなんだろうと推察するのである。

優秀なソフトを無料で提供してもらうためには、そういう仕組みも必要なことと飲み込むしかないのかも知れない。ユーザーとしては、ちゃんと読まずに「次へ」をクリックすることのないように自衛するのが基本ということだろう。

2012/05/25

Brown Green Tea

キルギス人の生活に茶は欠かせない。食事の時は必ず茶を飲む。日本人でも、食後に茶を飲む人はいるだろうが、すべての人という訳ではない。キルギス人はほぼ100%。子供の頃から茶を飲んでる。

キルギス人が飲む茶は紅茶であるが、日本語で「紅茶」と呼んでいるお茶は、ロシア語、キルギス語では「黒茶」となる。あの色を「紅」と見るか、「黒」と見るか、文化によって異なるのが面白い。

さて、キルギスには紅茶(黒茶)のほかに緑茶もある。日本人にとって「茶」と言えば緑茶が基本だから、海外においても緑茶が飲めるのは嬉しい。

そう思って、緑茶の茶葉を買ってみたことがあったが、これに湯を注いで茶を出してみると、これが「緑茶」ではなかった。色が茶色なのである。茶色、というか褐色というか。

う~ん、なんでこれが「緑茶」なんだろうと思う。日本人的感覚ではウーロン茶のような色である。おそらく、ウーロン茶のような茶が、ここでは緑茶というカテゴリーに入れられているんではないか。

この手の「茶色い緑茶」はロシア語表記で売られているから、ロシア語文化圏では共通の現象だと思うのだが、その文化圏では、ウーロン茶も緑茶も同じカテゴリーの茶として扱われているのかも知れない。

そういえば、緑茶のことを「日本茶」とも呼ぶなぁ。「煎茶」とも。とすると、茶葉を煎じる飲み方というのは、日本独特の飲み方ということかしらん?

茶の話題を書いたついで(と言っては失礼かも知れないが)、とある茶農家の人のブログのリンクを貼っておく。

わがえん茶~鹿児島枕崎のお茶農家日記~

このブログを書いている人、実は、私が前回協力隊に参加した時の同期隊員。私はマレーシア、彼はラオスへの派遣だった。二本松訓練所で、宿泊部屋が隣だった。現在は、鹿児島県枕崎市で茶栽培をしている。

ブログから申し込めば、新茶の購入もできるみたいなので、お茶好きな人はCheck it out!

2012/05/24

そしてアリストン登場

ビシュケクでは、5月中旬からの1ヶ月間、市内への温水の供給が止まるのだが、その間、各家庭ではどう対処するのか?

もちろん、すべての家庭の状況を知っているわけではないので、私の見聞する範囲の話になるが、ビシュケクで温水供給が休止になる時期は、それぞれの家庭では備え付けの電気湯沸かし器で湯を沸かしている。

ちなみに、我が家(借家)ではトイレ内にその湯沸かし器が設定されている。

IMG_1472
(トイレの天井近くに設置されている湯沸かし器)

温水供給が止まるまでは作動させていなかったが、温水が止まる日に大家さんが来てくれ、湯沸かし器の電源を入れ、配管を開けるのをやってくれた。

そのおかげで湯が使えるのはありがたいが、なにせ湯を沸かすわけだから、この機械自体が熱を持ち、トイレ内の温度がこれまでよりも高くなってムシムシする。温度が高くなって、コバエの繁殖スピードが速まるのか、羽がハート形をした、日本でもおなじみのコバエがたくさん発生するようになっているように思う…。「ムシムシする」は「蒸し蒸し」と「虫虫」の両方に係っているのか…

この電気湯沸かし器、一番有名かつ人気があるのが「アリストン」という会社のものらしく、キルギスの人たちはその商品名で湯沸かし器のことを指して使ってる。「アリストンの電源、切っといて」みたいな感じ。

固有の商品名が、その商品全体を表わすものとして使われる例はほかにもたくさんある。「パンパース=おむつ」「ピンポン=卓球」「エレクトーン=電子オルガン」「オセロ=白黒陣取りゲーム(リバーシ)」「マジック=油性マーカー」などなど。昔はテレビゲームと「ファミコン」も同義語だったような気がする。ここに挙げた商品名以外にも、私が気づかずに「○○」と言っている物が、実は商品の固有名詞だということはあるのである。

私、こういうのはなぜか好きなのである。その商品を開発した人、会社にしてみれば、そこまでその商品がビッグネームになるとは思っていなかったはずのものが、いつの間にか商品群の代名詞になっている。開発者・社にしてみれば、ちょっと感動ものの話ではないだろうか。

NHKは、特定の商品名を出してはいけないのが原則らしく、視聴者参加の生放送なんかで、一般の人が何の気なしに「最近、○○に凝ってましてぇ…」なんてことを言って、アナウンサーが慌てて言い換えているのを見たり聞いたりするのが、なんとも言えないスリルを感じてしまうのである。

特に、ラジオ第一で平日の午後にやっているラジオ電話相談では、DIY(Do It Yourself、日曜大工)や園芸の相談の日は、相談者が呑気にも商品名を口走りはしないかと、ハラハラしながら聴くのがちょっとした楽しみであった。

だいぶ話がそれたが、そんなわけで、今は我が家のアリストン(本当の製品名は“thermex”と書いてあるが…)が活躍中であり、トイレは熱がこもらないように扉を半開き、という状況である。

毎年恒例の温水供給停止

去る5月11日(だったと記憶している)から、ビシュケク市内の温水供給が止まった。「温水供給」と言うだけでは、このブログを読んでいるほとんどの人にはピンと来ないんではないかと思う。

日本で温水と言えば、各家庭でガス、または電気で水を温めたものを使っている(それ以外もあるのかな? 薪で湯を沸かして使っているとか)。その環境ならば、ガス、電気が止まれば温水も出なくなる。ただ、ビシュケクの環境はそれとは違うので、説明が必要である。

ビシュケクの温水というのは、各家庭で沸かすのではなく、「温水工場」みたいな所で湯を沸かして、それを全市内にパイプを通して供給している。偉そうに書いているが、私もそのパイプを実際に見たことはないので、どこをどう通っているのかとかは分かっていない。ただ、「温水工場」と私が勝手に思い込んでいる煙突があって、それは写真に納めてある。

chimney
(温水工場の煙突?)

これらの煙突は、ビシュケクの中でもひときわ背が高く、地方からビシュケクに来る際、ランドマーク的な存在として目に映る。

聞くところでは、温水工場から温水を供給する際に、そのパイプ自体が温水で温まって暖房となっているらしい。そのため、チョルポン・アタという町では、暖房が必要な冬場は温水が供給されるが、暖房が止まる時季は温水供給も止まるのだと、かつてその町にいた先輩隊員が話してくれた。

ビシュケクで温水供給が止まるのは、設備のメンテナンスのためだそうで、おそらく湯を沸かす装置の点検や、湯が通る配管の補修なんかが行われているのだろう。先に挙げたチョルポン・アタという町では夏の間、温水が出ないらしいが、ビシュケクの場合はメンテナンスが行われる1ヶ月の間だけの供給停止である。

2012/05/23

マナスチュと琵琶法師

キルギスの英雄物語『マナス』を語るマナスチュについて書いていて、日本の琵琶法師のことをちょっと考えた。

日本でも琵琶法師も、マナスチュに類似したストーリーテラーであった(まだいるのか?)。口承で物語を覚え、それを語る。それが廃れてしまったのはなんとももったいない限りである。かたやキルギスではマナスチュは今も健在である。

両者の一番大きな違いは、琵琶法師の場合、琵琶という楽器が弾けなければならないので、これは大きなハードルであることは間違いない。マナスチュのほうは、今でいう“ラップ調”に語るスタイルなので、楽器演奏はしなくていい。

琵琶法師は盲人がなるものだったようだが、手元の電子辞書に所収の「ブリタニカ国際大百科事典」でその項を見てみると、当道《とうどう》という琵琶法師の自治組合があったのだが、明治にはいって当道制度がなくなり、それに伴って琵琶法師も激減したそうである。

かつては、一般の職には就けない盲人たちの自活手段として琵琶法師という道があったのだろうが、そのことが逆に「琵琶法師=盲人の仕事」という固定化につながり、盲でない者の中からは『平家物語』の語り部になろいうという者が出ない構造になったのではないか。このあたりの、なり手が絞られてしまった点も、琵琶法師とマナスチュとの違いだと思った。

ベベベン。

2012/05/22

5月21日、マナスの日

キルギスのテレビ局の放送を見ていたら、昨日(5月21日)は「マナスの日」だと言っていた。

「マナス(Манас)」はキルギスの英雄的人物で、また彼の生涯を描いた物語の名称でもある。キルギス人にとっては国民的なヒーローであり、日本でいえば記紀神話に出てくる神々みたいな存在なのではないかと思う。話はかなり神話化されているようだが、マナス自体は実在した人物だとのこと。彼の出身地タラス(Талас)には彼の生誕地だか、歿歯《ボッシ》地だかにマナス廟が建てられている。

マナスの物語は詩の形式で書かれており、その長さでは人類史上最も長いものなのだとか。キルギスの書店、図書館に行けば必ず『マナス』本は置かれているが、なにせ広辞苑くらいの厚さで2冊とか、百科事典サイズで3冊とか、―文字のサイズ、段の組み方なんかによっても違いは出るが―、とにかくそういうすごい分量の内容量の物語である。

日本語でも平凡社の東洋文庫で3分冊で翻訳されている。ただし、もちろん、この分量で翻訳して収まりきるわけはなく、抜粋訳になっている。

(Amazonのブックレビューに「キルギスという土地は、今は自治州であり」と書かれているのだが、キルギスは1991年に独立したので、参考にしたデータが古かったのではないかと思われる。)

本の厚みに思わず後ずさりしてしまう『マナス』なのであるが、さらにすごいのは、元々『マナス』物語は歌うように語るものとして成立したもので、それは口承で伝えられてきたという点である。

『マナス』物語を語る人を「マナスチュ(манасчы)」と呼ぶ。この人たちは『マナス』物語を憶えていて、それを何日もかけて物語るのである。聞いた話では、全編を語り終えるのに昼夜語り続けて1週間程度かかるそうな。前述の通り、元々『マナス』は口承文学であるから、マナスチュは先代から教わるか、聞き覚えるかしてマスターしていくのだろう。

いや、そうではなくて、マナスチュは教えられる、習わずして、ある日突然語れるようになるのだ、という話も聞いたことがあるが、それh民間信仰的な要素の混じったエピソードではないかと思う。ただ、口承による文化伝承というのは、文字による伝承に馴染んでしまっている私のような者には想像も及ばない世界があるようなので、一概にすべてを否定できるとも限らない。日本でもかつては琵琶法師による『平家物語』の語り伝えがあったし、アイヌ民族の神話伝承も口承であった。ちょっとタイプは異なるが、落語も師匠・先輩から弟子・後輩への口伝えが基本だと聞く(今はボイスレコーダーに手本を録音してもらって、家で練習するそうだが)。

突然話し始めるというエピソードの真偽は別にしても、あれだけの分量のストーリーを空《そら》で語れるというそれ自体がすごいことである。マナスというキルギス人の英雄、その物語を語る、しかも尋常でない分量を暗記しているのだから、マナスチュは人々から尊敬を受ける存在である。キルギスの500ソム紙幣にプリントされている人物も、有名なマナスチュの人である。

で、昨日は「ЭЛТР」という、キルギスの民族文化の放送に力を入れているチャンネルで、何時間も「マナスの日」を記念した番組が放送されており、マナスチュが『マナス』を語っていた。当然、すべてを語りきることはできないから、部分部分に区切っての語りだろうが(キルギス人にとっては、『マナス』の中の定番のシーンがあるのではないか。『平家物語』なんかでも歌舞伎になっているような人気のある物語があるように)。

manaschu1
(『マナス』物語を語るマナスチュ)

    manaschu2
    (何人かのマナスチュが交代で語っていた)

    いつかマナスチュの語りを動画でもアップできればと願っているが、その様はまさに現代のラップに通じるようなリズミカルで、独特の抑揚をつけた語り方である。キルギス人の子供たちの中には、そのリズム感に憧れて口真似をしているのを見かける。

    こういう芸能(こういうものこそ本当の「芸能」だ。今のテレビに出ているのははしゃぐだけのお調子者が多くて、芸を持った「芸能」人ではない)が、今も人々に愛されて敬われて伝えられているのは、キルギスの魅力の一つだと思う。

    「協力隊のブログリンク」を更新

    このブログのおまけページとして設置している「協力隊のブログリンク」のページを更新した。

    新たに見つけたキルギス隊員のブログをリストに入れ、すでに帰国した隊員のリストは別に分けた。少し見やすくなったんでは。

    キルギスという同じ国に派遣されていても、職種が違えば、住んでいる地域も違う、趣味も違えば、現地の人との交流の仕方も違う。私が気づかないようなことや、おそらく出会うことのない出来事・物なんかも、他の隊員は書いていたりもするので、これらのブログを読んでもらえば、キルギスについて私のブログとは違った情報が得られる。ぜひ読まれたし。

    2012/05/19

    買うなら今だ (2)

    協力隊員が、任国で買い物をするなら、使用機会は多くなって「元が取れる」から、買うのは早ければ早いほどよいと書いたのだが、もう一つ、キルギスでは(おそらく協力隊が派遣されている他の多くの国でも)、別の側面でも「買うなら今だ」がある。

    たとえばミッキー●ウスのTシャツがほしいとしよう。

    で、それをある店の店頭で見つけたとする。その時に、「ちょっと高いから、別の店を見てからにしよう」とか「別の色がほしい」とかで買わなかったとする。

    不思議なことに、そうやって一度スルーしてしまった商品には、再び出会えないことがある。

    後日、同じ店に戻ってみても、すでに売れてしまっていれば、それきっりである。再入荷するのかどうかは店の人さえもわからない。

    あと、バザール(市場)なんかで言えば、ある店で気になる商品を見つけても「他の店を見て、比較してから買おう」と思って、

    他の店をぶらぶらしていた後、「やっぱり、あの店で買うことにしよう」と決めて、その店に戻ろうと思っても、バザールの中の土地勘が働かず、その店に戻れないこともある。自分が行き慣れたバザールであれば、だいぶ店の並びも覚えてきたとは思うが、それでも「あの店、どこだったかねぇ、婆さんや」と日本昔話風に心の中でつぶやいていることがある。

    そういう経験を何度かしているうちに、また他の隊員からもやはり同じような経験をしている話を聞いているうちに、買おうかどうか迷ったら、「今買う」という判断をするようにしている。

    もちろん、そのあと、同じ商品を別のところで、しかも値段が安い物を見つけるという場合もあるのだが、二度と見つからないケースよりは数十円の差なら買っておいたほうが後悔は少ない。

    私の記憶では、百円均一ショップのダ●ソーに、「同じ商品を仕入れできるとは限りません」旨の注意書きがされていたはずだ。これは、客の中に「前に来た時に見た××がないんだけど」みたいなことを訊いてくる人がいるからなんだろう(他のケースもあるだろうし)と想像したのだが、そうは言ってもダ●ソーはかなり商品の供給は安定しているんじゃないのか?

    今、私は首都の隊員になったので、途上国とは言えど、首都にいるとたいていの物は「探せばある」という感じである。だから、「買うなら今だ」感覚は、村にいた時よりも弱くなっている。

    2012/05/18

    買うなら今だ (1)

    協力隊の任期は2年間である。どの隊員にとっても、そこの国、町、村での暮らしは初めてであり、当然、生活に必要な物資のほとんどは現地で手に入れなければならない。

    そろえなければならない物品は国・地域によっても、また隊員個々人でも異なるところはあるだろうが、現地で新たに買わなければならないような物の場合、買うタイミングが難しかったりする。

    たとえば、胡麻とかをするための“すり鉢”がほしいと思ったとする(←これ、自分が今ほしいと思ってるわけ、結局)。地方だと、それが売ってなかったりすることもあるから、「次に首都に行く機会があったら、店で探してみよう」とか思うのだが、首都に行くのが2~3か月、あるいは半年先ということにであれば、すぐには入手できない。

    たまたまある店で売っているのを見つけても、「なんか、これ値段が高い感じがするなぁ」と思って、「別の店ならもっと安いのがあるかも。もっと探してみよう」なんて気を起こすと、買う時期は先延ばしになる。

    こんなふうにして買うのが先延ばしになって、気づいてみると自分の協力隊任期が半分を過ぎていたりすると、「残り1年間ですり鉢なんて、何度使うんかいな? 本当に買う意味あんの?」と考えてしまう。考えているうちに時間はさらに経ち、祇園精舎の鐘の音。

    私は、新しく赴任した隊員には言うのだが、本当にほしい物(かつ値段も数万円とかでなければ)ならば、早く買えば買うほど得だよ、と。その物を使えるのは、自分の帰国するまでなのだから、早く買って使い始めれば、それだけ「元を取る」機会は増えることになる。

    今、私の任期は残り3ヶ月を切っているが、このタイミングで新しい物を買おうと思っても、「いや待て、これあと何度使うんじゃい?」と自問して、買うのを思いとどまっている。たとえばすり鉢なんか、日本にいたって、月に何度も使っていなかった物だから、今買ったとしても、キルギスにいる間に使うのも1~2度になることが想像できる。そう考えると、今さら買おうという行動にはつながらない。

    もしこのブログを読んでいる世界各地の、赴任して半年未満の協力隊員の人がいるなら、私は「ほしい物があるなら、買うのは今ですよ」と、心優しい先輩隊員の経験に基づくアドバイスを送るのである。

    (それにしても、たまにすり鉢使いたいのよねぇ…)

    2012/05/17

    ビシュケクだから買えた物 (2)

    キルギスにおいて、首都のビシュケクだから買えた物、ほかにも思い出した。

    ボックスティッシュ

    村では、ティッシュペーパー自体が珍しかった。売っていたとしても、ポケットティッシュばかりで、ボックスに入ったティッシュペーパーは売っていなかった。そういう物で洟《はな》をかむのは、贅沢というか、金を払ってまですることではないという感覚なんだろう。村の人たちは手鼻をかんでいた。女性でもそう。中にはハンカチでかんでいる人もいた。

    ビシュケクでは、チェーンのスーパーマーケットで普通に売られている。ボックスティッシュはカラコルという町でも買えたので、村隊員だった時は、ビシュケクやカラコルへ行った際にボックスティッシュを買って使っていた。

    2012/05/16

    土産をどうするかという問題

    7月末の帰国まで残り2ヶ月半となった。村にいた時には想像もしなかったような仕事のペースになって、平日は職場と自宅の往復で一日が終わっている感じになっている。それはそれで充実感があるので構わないのだが、こんな感じで日々を過ごしていると、2ヶ月半なんてアッという間に過ぎ去っていくだろうことはほぼ間違いない。

    22年度1次隊のキルギス隊は1ヶ月遅れの赴任だったから7月末で2年満了となるが、他の同期は6月下旬で任期満了の予定で、すでに残り1ヶ月ちょっとになっている。1ヶ月ちょっと言ったら、もうほとんど帰国準備の頃である(まあ、計画的に準備がでいる人の場合はね。私は帰国最終日までバタつく方の部類だろうな)。1ヶ月半、2ヶ月半の差はあるにせよ、22年度1次隊もいよいよ帰国する日が近づいてきている。

    帰国の支度をする中で頭を悩ますのが、日本で再開する家族、親戚、友人、知人への土産をどうするかという問題である。

    2年間、現地で暮らしていれば、いろいろと面白い物、珍しい物に出会う。日本にいるみんなにも手にとって見せてやりたいと思う物がたくさんある。が、もちろん、そんな物を一つひとつ買っていては、荷物が膨大になってしまう。

    加えて、日本でどれだけの人に土産を渡さなければならないかというのが、これまた厄介な問題である。今から確実に会うであろうことが予想できる人もいるが、いつ会うことができるかわからない人もたくさんいる。

    協力隊経験者の友人であれば、土産物を持ち帰るのがどれだけ手間かをわかっているから、「ごめん、土産はないですぅ」を言わずとも理解してくれる(と思う)が、協力隊など興味もないという人にしてみれば、「海外から帰ってきて土産物がないとは失敬な」と思う人もいたり、いなかったり。まあ、怒るような人はいないと思うが…。

    生意気と思われるかも知れないが、一言弁解じみたことを書いておくと、青年海外協力隊は旅行に行っているわけではない。普通の海外旅行のように現地の土産物を期待している人は、どうかその点を理解してもらいたい。特に私の友人・知人にはそのことを強調しておく。あしからず。

    と、なんだかんだ言っても、隊員はそれぞれかさばるのを覚悟の上で、日本で再開を待つ人たちに土産物を買うのだけれどね。でも、日本語にはいい言葉あるでしょ。「土産話」という言葉。物ではなく、協力隊員が2年間、それぞれの赴任地で見聞したこと、現地の人との思い出、それは絵葉書とかチョコレートに勝る土産である。
    (きれいにまとめたね。)

    2012/05/15

    横浜DeNA、返金チケットに思う

    日本のプロ野球。今年は横浜が球団売却されて新球団になった。もう5~6年、最下位が定位置になっているチームで、今シーズンも戦力的にはかなり厳しく、成績もよろしくない。それでも、中畑新監督が就任して、なんだか他のチームにはない、独特の面白さを醸し出しているように見える。横浜のファンではないが、セリーグの中では断然、このチームを応援したい。

    さて、その横浜だが、球団は勝敗に応じて返金できるチケットを販売していた。このチケット、「横浜が負ければ全額返金、横浜が勝っても、試合に満足しなければ半額返金に応じる」という企画であった。「勝っても返金」って、なんか変だなと思っていたのだが、この企画が終わってニュースサイトで評判のようなものが載っていた。

    トイレ混みすぎ…好調DeNAに「金返せ」行列

    試合とは関係のないところで「満足、不満足」が語られていて、要は安売りチケットとして認識されていただけではないかと思われる。この企画の結果について、特に勝っても返金申請が多数出ていたことについて、中畑監督は「選手の士気に影響する。二度とこのような企画はしないでほしい」旨、語ったそうな。監督も選手もかわいそうに…。

    この企画について、伊集院光もラジオ番組で触れていたようで、面白いことを言っている(ラジオ番組の内容を文字に起こしている「世界は数字で出来ている」から一部引用)。

    伊集院光「横浜DeNA 返金チケットは失敗だ」

    この場合、自分の中に『これは返金できる/できない』じゃなくて、『負ければ全額、勝ったら半額っていうチケット』だって思ってるのかな、と。2千円の、もしくはただのチケットってことで買ってるなら、もう出さないほうが良いよ。まともなお金で入ってる人に対しての、むしろ購買意欲を下げるチケットに過ぎないから

    これ、本当にそうだと思う。私は、このチケット企画の話を聞いた(読んだ)ときに、まさにそのように受け取った。もっと言えば、「横浜が負ければチケット代がタダになる。ならば、横浜、負けろ~」と逆応援をすることになるんじゃないか、と。これでは、現場で戦っているチームはやりきれない。

    その後、伊集院は面白いアイデアを出している。

    負けた回では、チケットを切らず、『勝った試合5回見られるチケットですよ』ってことではダメなんかね?負けた試合では、チケットにハサミは入らないけど、勝った試合は入るから、『これは5勝分見られるチケットですよ』っていうんなら分かるんですけど(略)

    伊集院光のオリジナルアイデアなのかどうかは知らないが、これは面白い。もちろん、いつチケットにハサミを入れるのかとか、そのチケットを持った人が蓄積した場合、座席が不足しないか、などの課題はありそうだが、考えれば解決策は見つかりそうなレベルである。

    伊集院光のアイデアを聞いて、それを発展(?)させたアイデアを私も思い付いた。

    ホームゲーム(横浜スタジアム)で、横浜が勝利したらシートにスタンプをもらえるようにし、スタンプが××個集まったら、1試合分のチケットと引き換えられる。

    というのはいかが? これなら、横浜が勝利することを積極的に応援できる。さらに、スタンプを集めるまでは何度も球場に足を運ぶから、来場者数は上がる可能性もある。さらに思い付いた!

    たとえば、5勝分のスタンプを集めたら、1試合分のチケット1人分と引き換え。
    しかし、5勝分で引き換えずに、9勝分までスタンプを集めたら、1試合分のペアチケットと引き換え。
    そこでも引き換えずに、15勝分までスタンプを集めたら、2試合分のペアチケットと引き換え。

    なんていうのはいかが? 「15勝分を集める」って、ある意味、横浜の勝率で考えると40試合くらい見に行かなければいけないし、そのスタンプを集めている人が見に行った試合が負け試合ばかりにあたることもありうるわけで、達成はかなり厳しいかもしれないが…。こういう企画内容では法律上の問題があるのかしらん?

    横浜の親会社となった企業は、無料ゲームで利用者を集めるというところらしいのだが、その「無料ならば人が集まる」という発想が基本にあるのかも知れない。企画の奇抜さで集客を狙ったのだろうが、その時、現場の監督、コーチ、選手、また今まで応援してきたファンのことはどのように考慮したのだろう。球団経営は、もちろん、ビジネスであるから、売上を上げることが目標であるが、野球チームは球団経営者だけのものではない。

    野球チームはファンのものであり、そして現場(監督、選手、コーチたち)のものである。この人たちが、チームの勝利を喜べないような企画・仕組みを考えるようならば、そのうちファンも現場もチームに愛想を尽かしてしまうだろう。

    その癖はヤバイ (5) ~流し忘れ~

    前回、トイレットペーパーを流さず、ごみ箱に捨てるという話を書いたのだが、あれは日本もその昔、トイレットペーパーの紙質が粗悪だった頃は、同じようなことがあったんではないかと思った。どうなんだろうか。

    さて、キルギスでも地方の村でホームステイをしている隊員は、たいていはぼっとん便所での生活で、最初は水洗トイレを懐かしんだり、ぼっとん便所を不便に思ったりしているのだが、まあこれも毎日のことだからすぐに慣れるのである。

    ぼっとん便所というのは、用を足した後も水を流すことがない。ひもを引いたり、レバーをひねったりということがない。ぼっとん便所に慣れる過程は、すなわち水を流す習慣を忘れる過程でもあったりもする。

    一度、何かの用事で村から首都のビシュケクへ行き(その頃はまだ村で活動していた)、宿泊先のホテルでは、これまた地方から首都へ来た別の男性隊員と相部屋になった。この時、この隊員がトイレを使った後、水を流していなかった。「水流してなかったぞぉ」と伝えると、「いつも、ぼっとん便所だから、水流すのを忘れてた」との弁。この時は彼のドジを笑ったのだが、そのすぐ後に、今度は自分が用便の後、水を流し忘れたのであった。

    私はすでに、首都に引っ越し、水洗トイレでの生活を送っているので、流し忘れることはないと思うが、地方隊員は気を付けなければなるまい。これはキルギスだけの話ではないはず。ひょっとして、帰国日の1週間くらい前に首都に移動するのは、帰国までの諸手続きの他に、都市生活に順応し、地方で身についた習慣を修正させるためでもあるのかしらん?

    2012/05/13

    その癖はヤバイ (4) ~トイレットペーパーを流すな!~

    トイレで用を足して、トイレットペーパーで拭いた後、使い終わったその紙は便器の中に落として水を流す。日本では当たり前のことだが、トイレットペーパーの扱いについては、文化や地域によってかなり異なる。

    キルギスでは、村ではほとんどの家のトイレは“ぼっとん便所”であるが、町では水洗トイレ(「水洗便所」でも同じ意味だが、「水洗」と付くと「トイレ」と書くほうがよい感じか…?)が普及している。

    水洗トイレでの用便に慣れている人にとっては、水洗トイレはありがたいものだが、注意しなければならないのは、キルギスの水洗便所では、トイレットペーパーは流してはいけないことである。

    何故にと言えば、トイレットペーパーが水溶性でないため、下水管の中にトイレットペーパーが残ってしまい、配管詰まりを起こしてしまうからである。日本でも、ティッシュペーパーの注意書きを読むと「トイレに流さないでください」と書かれているが、あれはティッシュペーパーは水で溶けないからである。

    日本ではJIS(日本工業規格)によって、「トイレットペーパー」の基準も設けられているそうである(前にテレビで観た)。確か、「××の水流で××cm3の管に流した時に、××m以内に溶けること」みたいな基準であった。そんなことまで規格があるのかと感心したのだが、それがあってこそ、我々は普段、何の心配もせずにトイレにトイレットペーパーを流せているのである。

    キルギスで売られているトイレットペーパーは、―手に取ればすぐに分かるが―、硬くてごわごわしている。そして水に溶けない。何よりの証拠に、ぼっとん便所の下に落ちているトイレットペーパーに“放水”をしても、紙の形状は変わらない。

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    (キルギスで売られているトイレットペーパー)

    トイレットペーパーが流せないとなると、使用した紙はどうしたらよいのか。

    キルギスの水洗トイレでは、必ずごみ箱が置かれている。使い終わった紙はそこに入れるのである。

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    (使用済みの紙はごみ箱に入れる。男子トイレも同様)

    さて、やっと本題なのだが、キルギスで生活し始めの頃は、何度かうっかりと便器に紙を流してしてしまったことがあるのだが、2年も生活していれば、紙を流さないことがすっかり身に付いている。

    そういう癖が身に付いて、日本のトイレ(まずは成田か?)を使うと、「あれ、ごみ箱がない…!?」と焦ってしまうのである。いや、これは笑い話でなく、帰国した先輩隊員から聞いた実話である。

    日本のトイレは個室だから、ごみ箱を探して焦ったとしても、誰に見られるという訳ではなし、「ヤバい」というほどの話ではないのだけれど。

    2012/05/12

    報道の自由ランキング

    ネットのニュースから。

    Kyrgyzstan ranks 155th place in Press Freedom Index

    記事によれば、「フリーダムハウス」というアメリカ政府が出資している団体が、世界の国々の「報道の自由」の度合いを点数化して、ランキングを発表したとのこと。その中で、キルギスは全197ヶ国のうち、155位にランクされているのだという。

    197のうちの155位は、かなり下のほうという気がするのだが、それでも中央アジアの国の中では一番ランキングが上と書かれている。じゃあ、他の中央アジアの国はどうなのかというと、タジキスタン(171位)、カザフスタン(175位)、ウズベキスタン(195位)というランキング結果。

    ウズベキスタンにもJICAボランティアが派遣されているが、報道の自由度では全体の下から3番目の国である。彼の地で暮らし、活動している仲間たちは苦労していないのかと心配になる(当然、そこの国民にとっても改善されるべき状況は多いはず)。

    記事の最後は、197ヶ国中の197位になった国について書いてあるが、やはりあの国であった。

    2012/05/10

    ビシュケクだから買えた物

    地方の村から、首都へ引っ越しをして、地方と都市の生活の違いをさまざまな場面で感じるのであるが、購入できる物品にもそれが顕われている。私が生活の中で買い物をしていて、「あ、これは村ではなかったな」という物を記録しておく。

    豚肉

    豚肉に関しては、当ブログでも何度か触れたことがあるが、キルギス系住民のほとんどはイスラム教徒であり、戒律によって豚肉食は禁じられている。私がいた村では人口の9割以上(97~98%?)がキルギス系の人が占めていたので、村のどこを探しても豚肉は販売されていなかった。

    ビシュケクではロシア系住民の比率がグッと上がり、大きなバザールの肉売り場では豚のコーナーがある。ただし、牛、羊、牛、鶏といったイスラム教徒が購入する肉とは売り場は分けられている。

    地方の村でも、ロシア系住民が大半を占める村もあるので、そういう地域では豚肉が販売されているのではないかと思う。ただし、自分では直接見たことはない。カラコルという市のバザール(市場)では豚が売られていると聞いたが、これも自分が見たことはない。

    きのこ類

    先日、バザールできのこが売られていたので思わず買ってしまった。詳しくないので、種類はわからないのだが、ヒラタケとかマイタケとか、そんな感じだろうと思う(いや、ほんとテキトーに書いていてお恥ずかしい)。

    きのこも村では一度も見たことがなかったなぁ。いや、そういえば缶詰のマッシュルームは買ったことがあった。だが、生のきのこはなかった。私がビシュケクのバザールで購入した時、キルギス系の人も買っていたから、きのこに関しては宗教上のタブーはないのだと思う。

    きのこと言えば、干し椎茸もビシュケクで買えた。村では見たことがなかったが、ビシュケクの人は干し椎茸をどんな料理に使っているのだろう? 干し椎茸はカラコル市では売られているのを見たことがあり、カフェの料理でも見た。その料理は、ペリメニという小さな餃子にホワイトソース、椎茸、チーズを載せてオーブンで焼いた料理だった。結構おいしかった。というか、その時は椎茸が珍しく貴重に思えたので、椎茸が食べられたことに感動したので、おいしく感じたのかもしれない。

    「戦勝記念日」はいつまで続ける?

    5月9日は「戦勝記念日」。前にも書いたが、ここで言われる「戦勝」とは、かつてソ連がドイツとの戦争に勝ったことを指す。

    なにか式典をやっているかも知れないからと、昼過ぎに協力隊の仲間と中心部にあるアラトー広場に出てみた。だが、人は大勢出ていたが、式典らしきものはやっていなかった(帰宅してからテレビを見たら、どうも午前中に式典は済んでいたようだ)。

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    (アラトー広場に集まった人々)

    この写真に集まっているだけでも、前に住んでいた村の人口を超える人数ではないか。キルギスの中ではビシュケクという町は他とは格段に違うことを印象付けられる。

    今日は、ロシアから配信されている放送局も、モスクワでの式典の模様を流していた。つい最近、大統領に再就任したあの人 の演説などが出ていた。

    「戦勝」してから今年で67年経っていて、当時、従軍した人で生存している人はもう90歳前後であり、もうほとんどいなくなっているんじゃないかと思う。第2次大戦に従軍した人だけでなく、それ以降の退役軍人と思われる人たちも列席していて、軍服の胸の位置に勲章メダルを何十個と付けていた。

    私は日本人であり、日本は第2次大戦では敗戦国だから控えめにしか言えない気がするのだが、この「戦勝記念」はいつまでやるのだろう、とテレビを見ながら思った。

    ソ連はすでに存在していない国家だし、ロシアとドイツも今は当時とは別の関係にある。「我らは勝利した!」と書かれた看板・垂れ幕もあちこちに出ていたが、67年経ってもそのことは記念したいものなのか、と私には不思議には思った。

    日本は第2次大戦では敗戦国になったから「戦勝記念日」はないのだが、それ以前には勝った戦争もあった。1945年に負けるまでは、日本もその戦勝を記念して祝っていたのだろうか。もしそうだとすると、次の戦争に負けるまでは、その国は一番直近の戦争の勝利を祝うものなのだろうか。

    2012/05/08

    交通整理? 渋滞原因?

    ビシュケクの大きな通りの交差点でしばしば見られる光景に、交通警察と呼ばれる交通の取締りを専門にする警察官が、交差点の真ん中に立って、通行の流れを指示・誘導していることがある。

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    (交差点の真ん中で交通整理をする交通警察官)

    この交通整理は信号機よりも優先されるようで、たとえ自分の進行方向が青信号であっても、交通警察官が「待て」の指示を出していたら待たなければならない。

    なんでこういうことをするのかというと、一つは、政府要人(大統領、大臣)が公用車で移動する際、信号で止まることなく通行できるように、進路になる道を交通規制するのである。まだ動画は撮れていないが、帰国までには必ず取りたい光景で、高級車がその前後にパトカーを従えて、ノンストップで目の前を通っていくのは大名行列と言おうか、特別扱いであることをまざまざと見せ付けられる思いである。

    こういう場合は、政府要人の車が通り過ぎるまで、10分くらい待たされることも普通である。まあ、これは要人のセキュリティ確保という意味もあるだろう。

    これとは別に交通警察官が交通整理をしていることがある。これがどういうことなのか、私にはよく分からない。

    ビシュケクでは車の所有台数が増えて、平日の日中は交通渋滞が常態化している通りがいくつかある。で、そういう渋滞を解消させるために、交通警察が出て、流れを整理しているのだろうと理解していたのだが、どうも見ていると、交通警察が交通整理をし始めると、かえって交通の流れがいびつになり、渋滞が悪化しているように見える。

    十字路の縦横の道の一方を止めて、他方を通行させるのだが、その基準がよく分からない。しかも、待たせる時間も警察官の裁量任せのようで、5分くらいずっと進めない場合もある(もちろん5分間通行が許されている道もあるわけだ)。

    見ていて、「なんでそれをする必要があるの?」と思わずにはいられないのだが、何かの役には立っているのだろうか? 警察官の権威誇示?

    しかし、待たされているドライバーのほうも、ただおとなしく待っているわけでなく、あまりにも規制時間が長くなると、クラクションを鳴らして警察官をせっつく。列の後ろのほうで待たされている車からもプープー、パーパー、クラクションが鳴る。警察官に向かってクラクションを鳴らしている国なんて、そうめったにあるもんじゃないのでは? そこがキルギスの面白いところであるように思う。

    2012/05/07

    弦楽器兄弟たちの離散

    気づけば、帰国まで残り3ヶ月を切っていた。ぼちぼちと荷物の整理も始めなければならない。

    荷物の中で懸案なのは楽器類である。ギター、ウクレレ、三線《さんしん》、コムズ(キルギスの民族楽器)と、やたらと楽器があるのである。それらを「弦楽器4兄弟」と呼んだりもしているのだが、帰国の際に、これらをすべて持って行こうとすれば、かなり厄介である。

    そこへ、たまたまのタイミングでもあるのだが、新隊員のうちでギター、ウクレレを練習してみたいという人が現れ、それぞれ譲渡なり、貸し出すなりする形で、私の元から引き渡した。これでだいぶ帰国時の荷物は楽になった。

    コムズは、今のところハードケースがないから、手荷物で機内持ち込みになる。機内持ち込み荷物は、他にもパソコンとかがあるから、必要最小限にしておきたい。楽器はできるだけ機内持ち込みが望ましいから、数を減らせたのはよかった。

    そういうことで、私の元にあった弦楽器4兄弟のうち、ギターとウクレレは別の人の所へ移って、兄弟立ちは離散することになった。

    2012/05/06

    首都にも野良犬がいる

    キルギスの首都、ビシュケクの風景。

    dog
    (首都ビシュケクの路上で寝そべる野良犬)

    発展途上国とは言っても、人口100万人の大都市である。そんな町の中にも野良犬がフラフラしている。

    マレーシアでも野良犬がいた。旅行で訪れたバンコク(タイ)でもいた。

    日本では、特に都市部では野良犬はゼロである。犬に咬まれる事故とか、狂犬病感染とかを予防するために、つながれていない犬は保健所が捕獲してくれる。その仕事をしてくれている役所の人たちには感謝すべきだし、なによりも我々の生活の安全が守られていることはありがたい。

    でも、なんか釈然としない感じも残るのである。

    キルギス、マレーシア、タイ、ほかにも野良犬がいる国はたくさんあるはずだが、なんでそういう国々では野良犬の存在が許されて、日本(の都市)では許されないのだろう? それらの国は途上国だから野良犬がいる、ということか? でも、野良犬との付き合いの熟達度で言ったら、あちらさんのほうが断然、先進国だと思うのだが…。

    思い返してみると、私の幼少時には、まだわずかながら野良犬がいた。祖母に連れられて歩いている時に、腹を空かした野良犬が食べ物ほしさに我々の後をつけてきていて、祖母が追っ払っている光景が記憶にある。

    狂犬病が発生するのも厭わずに野良犬を黙認すればよい、とも思わないが、野良犬がいる場所の人たちは、犬への対処も心得ている。ひとことで言えば「手荒い」扱いである。野良犬がまとわりついてくるようなら、石を投げつける。屋台で食べているところに近寄って来たら蹴飛ばす。

    (ただし、タイでは事情は違った。仏教国であるせいか、野良犬も大事にしているようで、むやみに脅かしたり、蹴ったりはしていなかった。野良犬は追っ払うのが常識だと心得ていた私が、寄って来た野良犬どもを足蹴にしていたら、現地の人たちがやや遠巻きに目を丸くしている感じであったので、私も「なんか、俺のほうが悪いの?」と立場が悪くなった気がした。どこの国でも野良犬をいじめているわけではないので、タイ人の名誉のために書いておく。)

    石を投げつけたり、蹴飛ばしたりするのは、もちろん残酷な行為である。動物虐待に違いない。しかし、役所が野良犬を捕獲してくれる日本では、我々の見ないところで犬たちは処分されている。いや、野良犬だけでなく、飼われていた犬も飼い主が蓄犬預かり所のようなところに持っていき、そこで殺処分されている。状況が違うから、どちらが「より残酷か」という話をするのではないが、少なくとも、日本人が野良犬に石を投げつけて追っ払っている連中を指して非難するのはあたらない。

    別にキルギスでは、絶えず犬に石をぶつけているわけではない。こちらに向かってきそうな気配がする犬は追っ払うだけである。人間も己の身を自分で守るために、犬の動向に注意を向けているわけだ。危険を察知する感覚を常に持っていなければならぬわけで、身の安全を役所任せにしているのとは、道を歩いている時の神経の使い方も違う。

    私は目の前で見たことがあるわけではないが、海外へ旅行に行った日本人が、現地で犬に咬まれることが結構あるのだという。「おいで、おいで」と犬に近寄って(近寄らせて)、頭をなでようとする。そこへ「ガブリ」とやられる。犬はペットとしてしか認識しない環境で暮らしている者が、野良犬にも同じ感覚で近寄っていって起こる事故である。そういうことができるのはムツゴロウさんだけなのである(ってこともないが)。

    自分の身を野良犬から守ろうという感覚を持たずに暮らせる所では、人間の野性感覚も衰えていくんじゃなかろうか。

    wild dogs
    (職場の前の野良犬ども。別に危害を加えてくることはない。)

    憲法記念日

    5月5日は、キルギスの祝日だが、何の日だか分からないと前のブログに書いたが、この日は「憲法記念日」だということがわかった。キルギス人の友人に教えてもらって分かった。

    日本の憲法記念日は5月3日だから、たまたまだが、キルギスの憲法記念日と近い。別にどうという話ではないが…。

    2012/05/04

    ブタの鼻

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    そんなふうに見えない?

    アテレコとか、字幕とか、副音声とか (2)

    テレビ番組での吹き替えの話を書いていて思い出したので、マレーシアのテレビ番組について書いておく(約8年前の話だが、おそらく今も変わっていないだろうと思う)。

    マレーシアの国語はマレーシア語であるが、これはつまるところマレー語である。マレー語はマレー人の母語である。マレー人以外の民族も多数いるあの国では、マレー語を母語とすると感情的な反発もあるので、マレーシア語という言い方にしているのではないか、と、これは私の推測である。

    マレー人以外の民族とは、中国系、インド系、そのほかの各地の諸部族である。中国系、インド系は人口の3~4割を占めるほどであったから、決して少数ではない(地域によっても民族比率は大きく異なるのがマレーシアの特徴であった)。

    そういう民族構成の中なので、テレビ番組もマレーシアで作られたものの他に、中国・台湾、インドから輸入されたものも多々流されていた。そして、それらは原語のままなのであった。というのも、原語のままでも理解できる国民が一定数いるからなのであろう。

    しかし、そのままでは中国語、ヒンドゥー語を解さない人は番組を理解できないわけで、そのためにマレーシア語で字幕が表示されているのであった。これならばマレー人も内容を理解できる。

    この逆の、マレーシア語(=マレー語)の番組に、中国語・ヒンドゥー語の字幕を付けていたかは、ちょっと憶えていない。あったような、なかったような気がする。

    このようにマレーシア語の字幕が入っているのは、マレーシア語学習者としての自分にはとてもありがたかった。中国語・ヒンドゥー語ともに私は分からなかったので、マレーシア語の字幕を見て、それなりに内容を理解できたということと、字幕からマレーシア語の言い回しを学ぶことができた。

    面白かったのは、中国語の番組に中国語の字幕が付けられていたことである。「なんで?」と思ったのだが、これは、中国は広い国で、言語も地域ごとに大別して4つくらいあるらしいのである(正確な情報ではないから数字は鵜呑みにするべからず)。いわゆる「中国語」と言っているのは北京語であって、それ以外に広東語、福建語とかあるらしいのだ。

    というわけで、中国語の番組といっても、広東語で制作された番組であれば北京語の字幕を付ける、といったような配慮が必要になるというわけなのであった。

    で、そのような中国語字幕の番組というのは、音声を聞くだけでは皆目分からないのであるが、字幕は漢字なので、なんとなく雰囲気が分かる(場合もある)のだった。ありがたや漢字文化(私は漢字好きなので、余計にそう思うのかも知れぬ。ただし、中国語は簡体文字といって、漢字を略式にしてしまっているのでもったいない。日本でも漢字はかなり略してしまっていて、漢字の成立が分からないようにしてしまっている。台湾は繁体文字といって、日本でいう旧字で通しているから、手で書く場合の手間はあるが、一番、漢字を大事にしているとも言える)。

    キルギスでは、ロシア語の番組(いや、キルギス語の番組も含めて)にはロシア語の字幕が出ない。せめて、キルギス語の番組にはロシア語の字幕、ロシア語の番組にはキルギス語の字幕、というふうにしてくれると、ロシア語・キルギス語の学習に役立つのだが、どうもこの国ではそういうふうに字幕が役立つという感覚はないらしい。まあ、日本でも、文字放送は別にして、いちいち日本語の字幕を付けることはないのだから、同じことなのであるが…。

    アテレコとか、字幕とか、副音声とか (1)

    今、借りている部屋で有料チャンネルのテレビ番組をあれこれ見ているが、英語は某ニュース専門チャンネルのみ。ほとんどがロシア語である。

    ロシア語の番組といっても、アメリカやイギリスで制作されたものもたくさん(動物専門チャンネル、ハリウッド映画など)あり、それらはロシア語に吹き替えされているのである。

    ロシア語番組を見ていても、聞き取れる率は大して進歩していないのであるが、それはさておき、見ていて気づいたのは、ロシア語以外で制作された番組・映画を放送する際、ほぼ100%、字幕をつけることはせずに、ロシア語に吹き替えていることである。

    多分、この国でそれらの有料チャンネルを見ている人たち、また、おそらくロシアでも同様だと思うのだが、ロシアで外国からの番組を見ている人たちも、外国語がロシア語に吹き替えられていることに、違和感を持つことはないのだろうと想像する。

    私がそのことに「気づいた」のは、日本の状況とは違うと思ったからにほかならない。日本でも吹き替え番組はたくさんあるが、100%ではない。音声は原語を残したまま、日本語字幕を入れている番組も多い。また、日本語に吹き替えてある番組でも、副音声では原語(たいていは英語)を聴けるようになっている。

    そんなことを思ったものだから、家にあるテレビで副音声の切り替えができないものかリモコンをごちゃごちゃと操作してみたが、どうやら副音声という仕組み自体がないようであった。

    こうしたことを考えてみると、日本人が外国からのテレビ番組・映画を見る際の形式には、日本、日本人を取り巻く言語環境や、そこで醸成されたわれわれの外国語受容の態度が背景にあるのだと思う。戦後の日本人が一番意識した外国語は英語であるはずで、いわゆる「英語学習熱」や「英語コンプレックス」なんかが、副音声での原語放送を要請したのかも知れぬ。

    映画ファンの中ではたびたび交わされる議論のテーマの一つだと思うが、外国語映画を観る際、「①原語+日本語字幕」で観るか、「②日本語吹き替え」で観るかという問題がある。①の立場は、出演者本人の声を聞きたい、原作のイメージをそのまま見たい、という主張。②の立場は、字幕を読むことで画面全体の雰囲気が把握できない、したがって日本語で聞いて画面のほうに集中したい、という主張。もちろん、個人の好みの領域の話であって、どちらが優れているかという議論ではないだろう。

    (ちなみに、私は「字幕」派である。特に、DVD(昔はビデオ)で映画などは、せっかちな私は倍速で観ることも多いので、字幕があったほうがストーリーを把握しやすい。DVD時代になって、日本語映画でも日本語の字幕表示ができるので、私のような観賞方法を取る人には便利である。)

    すべてがロシア語に吹き替えられているそのこと自体も、ロシア語圏での言語感覚、言語使用の政治的な面が見て取れるのではないか、とも思ったりもする。米ソ対立という時代の頃は、東側の雄としての意地もあって英語学習は疎んじていたのだと思うが、実際のところ、旧ソ連の影響下にあった地域でのロシア語の普及率は、日本人が思う以上のものがある。ソ連から独立した国々でも、いまだにロシア語は公用語(国語ではないが)として使用されている。そういう状況があるならば、どの国の言葉でもロシア語に吹き替えて放送するのも、不合理ではないということだろう。だって視聴者のほとんどがロシア語で理解しているのだから。

    テレビ番組の制作方法なんて、どこに行っても同じようなもののように思いがちだが、そこにはそこの地域が持っている歴史的・文化的・民族的なあれこれが影響しているようなのである。

    2012/05/03

    キルギスも5月は黄金週?

    海外にいると、現地のカレンダーに沿って生活するわけで、日本が祝日であることとかを忘れてしまいがちなのだが、今、日本はゴールデンウィークの最中である。

    このゴールデンウィークを利用してビシュケクを訪問したキルギスのJICAボランティアの先輩がいたので、「ああ、日本は連休なのだ」と思い出せた。あとは、プロ野球の試合結果が気になるので、ネットで野球のサイトを見ると、試合時間が昼になっているので「おや?」と思うと、その日は祝日ということもある。そんなことでもなければ、日本の祝日は意識することはなかなかないものだ。

    ところで、キルギスもこの5月は祝日が多い。1日が「メーデー」。社会主義国だった時の名残だろう。

    9日は「対ドイツ戦勝記念日」。これに関しては昨年も書いた気がするが、現地の人から「日本も5月9日は休みなの?」と訊かれて、苦笑することがあったのだが、今年もやはり訊かれた。日本はドイツと同盟国だったわけで、この日が「戦勝記念」であることはない。

    私の配属先に、アメリカ人の女性ボランティアがいるのだが、彼女はドイツ生まれで、アメリカ人と結婚して国籍がアメリカになっている。だから、ドイツ出身者としての彼女にとっては「5月9日は休み?」という質問はナンセンスになる。その点で共通の話題となった。

    で、私は知らなかった(昨年はどうだったかな?)のだが、5月5日も祝日なのだそうだ。何の祝日か説明をしてもらったが理解できず。まあ、多分、キルギス協力隊の誰かがブログに書くんじゃないかと思うので、そちらを探していただければよかろう。

    そんなこんなで、5月前半は祝日が多い。キルギス人が「キルギスは5月は休みが多いのよ」と言っていたが、この時季に限って言えば日本のほうが休みは多いだろう。しかも連休である。「いや、日本も5月は休みがたくさんありますよ。『黄金の週(золотая неделя)』と呼んでます」と話したら、「黄金の週」という言葉がウケていた。

    5月1日、9日が祝日のせいで、私のほうは、それぞれの曜日に指導教室に来る予定だった子供を別の日に振り分けねばならず、一日に来る子供の数が多くなるので、忙しくなってしまうので、祝日も手放しで楽しめないのであった。

    デモはなし

    5月1日から公共交通料金の値上げが実施され、それが引き金となってデモが起こるかも、ということで多少の用心はしていたが、結局、デモはなかった。

    私は通勤にマルシュルートカを利用しているが、今まで8ソムだったのが10ソムとなって、大きい札を心理的に出しやすくなった気はする。8ソムだと、10ソム、20ソム、50ソムと、どの紙幣を出しても小銭(2ソム)の釣りが出る。

    運転手は運転をしながら、釣り銭も用意して渡すので、手が空いていない時は、釣りは後回しになる。あるいは、小銭がない場合も、小銭で支払う客が乗って来るまで待たされる場合もある。そういういくつかのケースで、マルシュの中で釣り銭を受け取るのは難しい時があり、何度か釣り銭をもらい損ねたこともある。

    料金が10ソムの場合、20ソム紙幣で支払えば、10ソム紙幣、または10ソム硬貨の釣り。50ソムで支払えば、20ソム紙幣が2枚で釣りはちょうどとなる。

    かと思えば、釣りがジャラ銭で返ってくることもあるから、こちらの思惑通りにはならないのではある。

    2012/05/01

    公共交通料金の値上げ

    今日、5月1日からビシュケク市内の公共交通料金が値上げされるそうだ。昨日、職場に来ているアメリカ人ボランティアから教えてもらった。「値上げに反対するデモが起こるかも知れないから、念のために気をつけたほうが良いよ」とアドバイスをもらった。

    私なぞは、「ああ、値上げになるのか」と料金のことしか思わなかったが、そのアメリカ人は2010年にキルギスで起こった革命当時にビシュケクにいたので、そういうことに注意が向くのかも知れない。

    今回の値上げは、マルシュルートカ(乗り合い小型バス)がこれまでの8ソム(14円)から10ソム(18円)、路線バスが6ソム(11円)から8ソムとなる。日本円で見ると微増だが、値上げ率で見るとマルシュルートカが125%、路線バスが133%。例えば、180円のバス・電車の料金が200円に上がったとして、その場合の値上げ率は111%だから、そういうのと比較すると、ビシュケク市民にとっては負担感が大きいのも想像できるのではないか。

    私を含めて、協力隊たちは日本人なのだから、“たった4円”の値上げと受け止められなくもないが、半年、1年と現地で暮らしていると、その“たった4円”が高いものに感じられるのだ。だって、出勤時の往復で考えたら毎日4ソムの値上げ。月20日出勤で80ソムの値上げとなる。

    とは言うものの、ビール1Lでそれくらいの値段がするわけで、交通料金の値上げに関わらず、しょっちゅう無駄遣いはしているのだから、値上げのことをとやかく言うのも恥ずかしいのではあるが…。

    2012/04/29

    短波ラジオ聴けない

    ビシュケクに引っ越してから、生活の中で変わったことの一つはテレビを見られるようになったこと。ロシア語放送は何を言っているかほとんど分からない情けない状況ではあるが、映像があると理解のヒントにはなる。また、テレビは文字表示もあるので、それも辞書で調べるのには役に立つ。

    ラジオも好きだから付けるが、こちらは映像・文字の補助情報がないので、単語が聞き取れなければもう手も足も出ない。村では入らなかったのだが、ビシュケクだと英語メインのFM放送局もあるので、最近はそこにダイヤルを合わせることが多い(実際は英語を聴きたいからというより、そこの局はジャズ、クラシックを多く流しているので、自分の好みに合うせいである)。

    テレビを見られるようになった一方、ビシュケクに来てから、短波放送を聴くことはほとんどなくなってしまった。

    ラジオ好きの人なら分かると思うが、ラジオは建物の建材や、周囲に電波を発生させるものがあるかなどで受信状態が大きく影響される。

    今、私が住んでいるのは、コンクリート建材の団地建物(しかも1階)で、こういう場所では短波電波は受信が困難なようである。引っ越して最初のころは、ラジオ受信機を持って部屋の中で受信状態のよい場所を探してみたが、どこもよい場所がないようなので、もうそれ以上の努力はしなくなってしまった。

    そういうわけで、村ではほぼ毎日聴いていた日本語の短波放送も、今はすっかり聴かなくなってしまった。私のラジオはもっぱらFM放送専用になっている。

    2012/04/28

    タンポポが綿毛になり始めた

    ビシュケクはキルギスの首都で、人口100万人の国内唯一の「都市」と呼べる町だが、街路樹を含めて緑が多い。

    tanpopo
    (ビシュケクの街中に咲くタンポポ)

    4月の頭にタンポポが咲き始めていたが、今はそれが綿毛になりつつある。

    watage

    桜散る

    ビシュケクでは、アプリコット(杏)の花はすっかり散り果てて、路上に茶ばんだ花びらが落ちている。

    sakura

    アプリコットと桜は近種で、花が似ているので、桜の花びらが降り落ちているような感覚である。

    2012/04/27

    その癖ヤバイ (3)

    赤信号、みんなで渡れば怖くない。

    という交通標語を茶化した言葉がある(あれはビートたけしが作ったのだったか?)が、実際のところ、世界的にみれば日本の歩行者は信号を守っているんじゃないだろうか。

    キルギスに来て、1年半、村で暮らしていた時は、そもそも信号機がなかった。一ヶ所だけ信号機のある交差点があったが、その信号機は作動していなかったし、交通安全上、その信号機が必要だという状況でもなかった。道を渡る時は、自分で左右を見て安全確認をして行くのである。基本的に、車のほうが「えらい」ので、車が行き過ぎるのを待つ。はねられて怪我をしようと、後遺症が残ろうと、あるいは死亡しようと、日本でと同様の補償金は得られない。

    ビシュケクはさすがに、辻ごとに信号があって、基本的に歩行者は信号を守っている。というか、車の交通量が多く、スピードを出しているのが多いので、赤信号を渡るのは危険で、守らざるを得ないのである。

    しかし、信号機のある横断歩道がないような道を渡りたいことも当然あるわけで、そういうときは、片側3車線の幹線道路を渡っていく人も見かける。私も必要ならばそういう道を渡る(だって、信号機のあるところまで歩くのって馬鹿らしいでしょ)。

    マレーシアにいた時も同様であった。信号機はあるが、設置されている間隔が遠く、「今、ここで」渡りたい場合には、車道を横切って行くしかないのであった。私がいた町は、マレーシア国内では5番目くらいの大きさだったが、盲人も人口の規模に比例して結構いた。その町では、やはり片側3車線の大きな道を、盲人が白杖を上下に降って、ドライバーに見えるようにしながら信号機のない場所を横断して行くのを何度か見た。もちろん車は止まってその人が渡るのを待ってはくれるのだが、それにしても見ているこちらのほうが恐ろしくなるような光景であった。

    東南アジアを旅行したことがある人ならば、信号機のないところ、あるいは赤信号でも渡っていく人がいるのを見たはずである。キルギスにせよ、マレーシアにせよ、また別の国々でもそうかもしれないが、これらの基本にあるのは、「安全は自分で確認して判断せよ」ということである。

    考えてみれば、至極当然のことである。生物として、その感覚は必要不可欠のものだと思う。

    road
    (今がチャンスだ、渡れ!)

    だから、(話は飛躍するように思われるかも知れないが)、何か事故が起こったような時に、例えば公園の遊具が老朽化していて誰かが怪我をしたような時に「行政は何をしている」と憤る人、学校内での事故があれば「学校の安全管理はどうなっていた」と叫ぶ人の中には、自分の安全を他人に委ね過ぎている人がいるようにも見える。

    おそらくキルギス、マレーシアだけでないと思うが、2年間、途上国暮らしをしている協力隊の多くは、「自分の安全は自分で確保する」という感覚を日常的に持ち続けて過ごしている。その一つが信号機のないところでも横断する、赤信号でも安全ならば渡る、ということなのだ。

    前回協力隊に参加した後、痛烈に感じたことなのだが、この感覚が日本での暮らしでは不適応を起こす。車が来ていないのに信号待ちをしていることがなんともじれったい。特に最初の1ヶ月くらいは、すごく葛藤していたのを憶えている。その時期は実際に赤信号でも渡っていた。東南アジア的に、まず道の半分まで渡って、そこで一旦車の通行がなくなるのを待って、残りの半分を渡りきるというのもやったことがある。これ、日本でやると非常に危ない。ドライバーがそういう歩行者がいることを想定せずに運転しているからだ。

    安全のために交通ルールを決めて、みんなで守るのも大事であるが、一方で人間もそれなりに有している動物的な感覚は鈍くさせられているのかも知れない。

    日本に帰って、赤信号を渡るのは顰蹙ものだと分かっているが、前回同様、最初の数週間1~2ヶ月くらいは渡ってしまうだろう(って、威張って書くべき話ではないのだが)。